昨日、横浜・桜木町駅からほど近い場所に位置する伊勢山皇大神宮に行ってきました。
「皇大神宮」という名前からも分かるように、明治時代の初め、三重の伊勢神宮から天照大神を勧請した神社で、港町横浜の原点ともなった由緒ある神社ですね。一般の神社ではなかなかお目に掛かれない、古代の神社の雰囲気を漂わす「注連(しめ)鳥居」がとても特徴的です。境内からは、横浜みなとみらいのシンボル、ランドマークタワーがよく見えます。
伊勢山皇大神宮



横浜在住の私としては、何かにつけて訪れる機会の多い神社なのですが、今回はお参りが主な目的ではなく、神社検定(神道文化検定)弐級の検定試験に挑戦してきました。


以前の記事でも書きましたが、昨年受けた参級の試験の会場は、東京・渋谷区の皇典講究所……ではなかった、國學院大學の渋谷キャンパスだったのですが、今年から新たに横浜会場として伊勢山皇大神宮が追加されたことから、今回、馴染のある皇大神宮の方で試験を受けて来ました(←弐級の試験を受けた人なら「皇典講究所」分かりますよね?)
今回の試験の感触ですが、やはり昨年受けた参級の試験よりも内容が難しく、ほぼ制限時間一杯まで掛かってしまいましたが、手応えとしてはまずまずでした。今回の神社・神道の歴史に関する問題は、ほとんど大学受験の日本史に近いような内容のようで、歴代の天皇や、神道に関連した諸人物、著作名を覚えるのが、なかなか大変でした。とはいえ、合否ラインの7割以上は確実に回答できたので、7月下旬の試験結果のお知らせを、首を長くして待ちたいと思います。
今年の神社界の最大の話題といえば、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮です。そんなこともあって、今年の弐級の試験では、式年遷宮を通じて行なわれる祭祀の内容を確認する問題が、数多く出題されました。そういえば試験当日の午前中、テキストには掲載されていない今年の「遷御(せんぎょ=御神体を本宮から新宮に移す、式年遷宮の中で最も重要な祭祀)」の実施日を確認していなかったのをふと思い出し、急いでネットで検索、内宮が10月2日、外宮が10月5日であることを覚えておきました。
予想は見事的中、試験問題の中に、内宮の遷御の日程を問う問題が出題されていました。これはツイている!と思ったのも束の間、選択肢には実施日だけでなく開始時間まで含まれていました、ガ~ン。
午後6時開始か午後8時開始のどちらか1つ…。ここはもう勘を頼るしかなく、午後8時の方を選びました。何とも詰が甘かった…と反省しきりで試験を終え、帰り際、会場にいた巫女さんから手渡された伊勢山皇大神宮のパンフレットを何気なく眺めていたところ、冊子の裏表紙に、遷御の日程と時間(10月2日午後8時開始)が掲載されていました。たった1問ではあるのですが、かなり救われた気分でした。
以上、昨日の神社検定の受験の様子についてお話ししましたが「表があれば裏がある」のが世の常。毎月『ムー』を購読し、飛鳥昭雄さんの著書を読んでいる自分としては、一般の世の中の人たちには全く公表されていない、神社界の裏の動向に大変興味があります。
先ほどから、伊勢神宮の式年遷宮の話しをしてきましたが、先月発売された『ムー』6月号に、「ジョー・マクモニーグルが伊勢神宮の地下を透視!!」という記事が掲載されていました。かつてテレビの企画番組で、リモートビューイング(遠隔透視)の特殊能力を駆使して、行方不明の人物を探し出すサイキックとして登場し、その名前を知っている人はかなりいるかと思います。
その彼が今回、伊勢神宮内宮の御正殿の地下で内々に保管されている、今上天皇でさえ見ることが許されない神宝を透視するということで、興味深々で記事を読みました。ハイグレードなステンレス製のトランクの中に、絹で覆われた神宝が3つ(あるいは4つ?)、詳細は是非、実際の記事を読んでいただきたいのですが、そのうちの1つが、かつて飛鳥昭雄さんが自著で明らかにした伊勢神宮内宮に隠された宝物の特徴と、かなり酷似しているとの指摘が記事中にありました。
実は以前、飛鳥さんのその著書を実際に読んだことがあり、超ド級の衝撃を受けたのですが、飛鳥さんの説とマクモニーグルの透視結果が一致したという事は、かなり信憑性が高い情報かと思われます。あまりに常識の範疇を超えており、一般の常識人からすると理解不能な領域の話しなのですが、実際に著書を読み進めると、飛鳥さんの説はどれも非常に理路整然としていて、溜飲が下がる部分がとても多くあります。ちなみに、飛鳥さんのその著作はこちらです。
失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎 (ムー・スーパーブックス)
飛鳥さんから発信される神社情報に関しては最近、もう1つ気になる話題がありました。熱田神宮に保管されている三種の神器の1つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)に関して、極秘のうちに熱田神宮を離れて、伊勢神宮に関連するお宮に移されるはずだ、という主張を、飛鳥さんは数年前から発信されていました。
昨年の9月、たまたま妻と一緒に名古屋旅行で熱田神宮を参拝する機会がありました。


参拝時には全くその様子は見られなかったのですが、昨年末、熱田神宮・祭祀1900年を機に、それまで禁足地だった本殿奥の場所が突然、一般公開されることになったそうです。一部、ニュースなどでも報道されていたようです。
熱田神宮 厳かに創祀1900年大祭(中外日報/2013年5月10日)
この事実、つい最近まで全く気付かなかったのですが、これまで一般の参拝者の立ち入りが厳しく制限されていたこの禁足地の公開こそ、そこに安置されていた草薙剣の移管が完了した明らかな証拠だと、飛鳥さんは主張されています。改めてネットで情報を色々と調べたところ、実際に熱田神宮に足を運び、公開された禁足地と、これまで目にすることの出来なかった神社の様子を、とても詳しく解説されている方がいました。こんな状況になっていたとは…、とても参考になります。
熱田神宮で解かれた封印!一之御前神社
伊勢神宮内宮の隠された神宝といい、熱田神宮から移された(?)草薙剣といい、すべての鍵を握っているのは伊勢神宮の別宮、三重県志摩郡磯辺町に鎮座する伊雑宮(いざわのみや)のようです。今回の弐級の検定試験の中でも1題、伊雑宮に関する問題がチラッと出題されていましたが、当然ながら、伊雑宮に関する“隠された真実”については一切、テキストでは言及されていません。いずれにせよ、今年の伊勢神宮の式年遷宮を契機に、神社界では何やらとてつもなく巨大な動きが、一般の日本人には知られないような水面下で、着々と進められているようです。
皇大神宮別宮 伊雑宮
…と、少々壮大な話しをした後ではありますが、ここ半月ほど、神社検定の試験勉強もあって、ブログの更新がかなり遅れ気味になってしまいました。記事にしたいネタが溜まっていますので、今後数日は出来るだけ頻繁に更新して行きたい次第です。お楽しみに。
「皇大神宮」という名前からも分かるように、明治時代の初め、三重の伊勢神宮から天照大神を勧請した神社で、港町横浜の原点ともなった由緒ある神社ですね。一般の神社ではなかなかお目に掛かれない、古代の神社の雰囲気を漂わす「注連(しめ)鳥居」がとても特徴的です。境内からは、横浜みなとみらいのシンボル、ランドマークタワーがよく見えます。
伊勢山皇大神宮



横浜在住の私としては、何かにつけて訪れる機会の多い神社なのですが、今回はお参りが主な目的ではなく、神社検定(神道文化検定)弐級の検定試験に挑戦してきました。


以前の記事でも書きましたが、昨年受けた参級の試験の会場は、東京・渋谷区の皇典講究所……ではなかった、國學院大學の渋谷キャンパスだったのですが、今年から新たに横浜会場として伊勢山皇大神宮が追加されたことから、今回、馴染のある皇大神宮の方で試験を受けて来ました(←弐級の試験を受けた人なら「皇典講究所」分かりますよね?)
今回の試験の感触ですが、やはり昨年受けた参級の試験よりも内容が難しく、ほぼ制限時間一杯まで掛かってしまいましたが、手応えとしてはまずまずでした。今回の神社・神道の歴史に関する問題は、ほとんど大学受験の日本史に近いような内容のようで、歴代の天皇や、神道に関連した諸人物、著作名を覚えるのが、なかなか大変でした。とはいえ、合否ラインの7割以上は確実に回答できたので、7月下旬の試験結果のお知らせを、首を長くして待ちたいと思います。
今年の神社界の最大の話題といえば、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮です。そんなこともあって、今年の弐級の試験では、式年遷宮を通じて行なわれる祭祀の内容を確認する問題が、数多く出題されました。そういえば試験当日の午前中、テキストには掲載されていない今年の「遷御(せんぎょ=御神体を本宮から新宮に移す、式年遷宮の中で最も重要な祭祀)」の実施日を確認していなかったのをふと思い出し、急いでネットで検索、内宮が10月2日、外宮が10月5日であることを覚えておきました。
予想は見事的中、試験問題の中に、内宮の遷御の日程を問う問題が出題されていました。これはツイている!と思ったのも束の間、選択肢には実施日だけでなく開始時間まで含まれていました、ガ~ン。
午後6時開始か午後8時開始のどちらか1つ…。ここはもう勘を頼るしかなく、午後8時の方を選びました。何とも詰が甘かった…と反省しきりで試験を終え、帰り際、会場にいた巫女さんから手渡された伊勢山皇大神宮のパンフレットを何気なく眺めていたところ、冊子の裏表紙に、遷御の日程と時間(10月2日午後8時開始)が掲載されていました。たった1問ではあるのですが、かなり救われた気分でした。
以上、昨日の神社検定の受験の様子についてお話ししましたが「表があれば裏がある」のが世の常。毎月『ムー』を購読し、飛鳥昭雄さんの著書を読んでいる自分としては、一般の世の中の人たちには全く公表されていない、神社界の裏の動向に大変興味があります。
先ほどから、伊勢神宮の式年遷宮の話しをしてきましたが、先月発売された『ムー』6月号に、「ジョー・マクモニーグルが伊勢神宮の地下を透視!!」という記事が掲載されていました。かつてテレビの企画番組で、リモートビューイング(遠隔透視)の特殊能力を駆使して、行方不明の人物を探し出すサイキックとして登場し、その名前を知っている人はかなりいるかと思います。
その彼が今回、伊勢神宮内宮の御正殿の地下で内々に保管されている、今上天皇でさえ見ることが許されない神宝を透視するということで、興味深々で記事を読みました。ハイグレードなステンレス製のトランクの中に、絹で覆われた神宝が3つ(あるいは4つ?)、詳細は是非、実際の記事を読んでいただきたいのですが、そのうちの1つが、かつて飛鳥昭雄さんが自著で明らかにした伊勢神宮内宮に隠された宝物の特徴と、かなり酷似しているとの指摘が記事中にありました。
実は以前、飛鳥さんのその著書を実際に読んだことがあり、超ド級の衝撃を受けたのですが、飛鳥さんの説とマクモニーグルの透視結果が一致したという事は、かなり信憑性が高い情報かと思われます。あまりに常識の範疇を超えており、一般の常識人からすると理解不能な領域の話しなのですが、実際に著書を読み進めると、飛鳥さんの説はどれも非常に理路整然としていて、溜飲が下がる部分がとても多くあります。ちなみに、飛鳥さんのその著作はこちらです。
失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎 (ムー・スーパーブックス)
飛鳥さんから発信される神社情報に関しては最近、もう1つ気になる話題がありました。熱田神宮に保管されている三種の神器の1つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)に関して、極秘のうちに熱田神宮を離れて、伊勢神宮に関連するお宮に移されるはずだ、という主張を、飛鳥さんは数年前から発信されていました。
昨年の9月、たまたま妻と一緒に名古屋旅行で熱田神宮を参拝する機会がありました。


参拝時には全くその様子は見られなかったのですが、昨年末、熱田神宮・祭祀1900年を機に、それまで禁足地だった本殿奥の場所が突然、一般公開されることになったそうです。一部、ニュースなどでも報道されていたようです。
熱田神宮 厳かに創祀1900年大祭(中外日報/2013年5月10日)
この事実、つい最近まで全く気付かなかったのですが、これまで一般の参拝者の立ち入りが厳しく制限されていたこの禁足地の公開こそ、そこに安置されていた草薙剣の移管が完了した明らかな証拠だと、飛鳥さんは主張されています。改めてネットで情報を色々と調べたところ、実際に熱田神宮に足を運び、公開された禁足地と、これまで目にすることの出来なかった神社の様子を、とても詳しく解説されている方がいました。こんな状況になっていたとは…、とても参考になります。
熱田神宮で解かれた封印!一之御前神社
伊勢神宮内宮の隠された神宝といい、熱田神宮から移された(?)草薙剣といい、すべての鍵を握っているのは伊勢神宮の別宮、三重県志摩郡磯辺町に鎮座する伊雑宮(いざわのみや)のようです。今回の弐級の検定試験の中でも1題、伊雑宮に関する問題がチラッと出題されていましたが、当然ながら、伊雑宮に関する“隠された真実”については一切、テキストでは言及されていません。いずれにせよ、今年の伊勢神宮の式年遷宮を契機に、神社界では何やらとてつもなく巨大な動きが、一般の日本人には知られないような水面下で、着々と進められているようです。
皇大神宮別宮 伊雑宮
…と、少々壮大な話しをした後ではありますが、ここ半月ほど、神社検定の試験勉強もあって、ブログの更新がかなり遅れ気味になってしまいました。記事にしたいネタが溜まっていますので、今後数日は出来るだけ頻繁に更新して行きたい次第です。お楽しみに。
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前回の記事で、上野公園周辺の散策の様子をお伝えしましたが、実はまだ続きがあります。
これまでの記事で何度も取り上げているサイキックの小林世征さんですが、2011年の『ムー』の特集記事の中で、実際に小林さん本人が公園内を回って、強いエネルギーが感じられる3つの地点を紹介していました。先日の散策の際にも、それぞれの箇所に立ち寄って、そこでしばらく時間を過ごしました。以前紹介した浅草のパワースポットとは違って、上野に関しては場所がかなりピンポイント的ですので、今回は写真だけを挙げておきます、あしからず…。
今回の3つの地点に関してですが、記事に書かれてあった説明によると、どの場所もやはり、かつて上野の山に威容を誇った「東叡山寛永寺」と深く関わりがあった場所のようです。
まず1つ目の場所です。ここは、天海僧正の弟子だった晃海(こうかい)僧正が、夢のお告げにより廃絶していた社を再建して、上野の山の守護神とした場所だそうです。この鳥居の奥にある神社の一画から、強いエネルギーが出ているそうです。

2つ目の場所です。ここは、かつて寛永寺の山門(吉祥閣)があった所で、小林さんの透視によると、外部の邪気が門によって阻まれ、良い気の状態が今もなお、保たれているそうです。詳細は控えますが、奇しくもこの場所(写真に写っていない上部)には現在、遠目から見ると円柱状の柱のようなモノが立っています。

3つ目の場所です。ここは、かつて寛永寺 子院の筆頭(凌雲院)があった所で、小林さんの透視によると、寺院内のしかるべき所に仏像が安置され、その像の放つエネルギーが今もなお、この場所に残存しているそうです。写真を見ればすぐに分かるかと思いますが、この場所にも奇しくもブロンズ像(上野を代表する野外彫刻の像)が置かれています。これは何かの因縁なのでしょうか、それとも単なる偶然なのでしょうか?

この3か所に関してですが、上野に来た際には出来るだけ立ち寄るようにしているのですが、1つ目と3つ目の地点はあまり感じられないのですが、2つ目の地点については毎回、その場所に手をかざすと暖かい空気が出ている感覚が必ずします。特に、冬の寒い時期などに訪れると、その暖かさがはっきりと分かります。
上野寛永寺を開いた天海僧正ですが、先日の散策後、天海に関連する書籍などを読み、その人物像を色々と調べているうちに、風水や気学など知識を駆使して、江戸の都市設計のマスタープランを作り上げた、とてつもない人物だった、という事実を知りました。
天海は、その土地が持つエネルギーを正確に読み取り、それを活用できた特殊な能力を持つ人物だったようで(未来に関する、ある種の予言的なアドバイスもしていたそうで)、その後、徳川政権が200年以上にわたって保たれたのは、天海がプラニングした、不可視なエネルギーを活用した都市設計が基盤にあったからこそ、と見る向きもあります。
また機会があれば、天海僧正の「隠された業績」の一部を紹介できばと思いますが、江戸時代の天海僧正といい、現代の小林世征さんといい、私たちの常識の範囲を超えた特殊な能力を持つ人というのは、どんな場所や時代にも確実に存在している、ということを改めて思った次第です。
ちなみに7月7日(日)、その小林世征さんご本人が案内してくれるパワースポット巡りが開催されます。
場所は本郷・湯島界隈です。私(サトセイ)も参加予定ですので、興味のある方は是非どうぞ!
第5回 エスパー小林と行く都内パワースポット巡り&ランチ In 本郷・湯島(夢源樹)
それから小林さん関連で、もう一つ…。今週発売の「週刊SPA!」(5/28・6/4合併号)に、「運気爆下げの逆パワースポット探訪」という記事が載っています。都内に拠点を置く某政党、某大企業、某国大使館の施設に関して、その場所(土地)が抱える問題点を小林さんが透視して、独自の見解を紹介しています。関係者が読んだらかなりショック(?)かもしれませんが、一読の価値ありですよ。
これまでの記事で何度も取り上げているサイキックの小林世征さんですが、2011年の『ムー』の特集記事の中で、実際に小林さん本人が公園内を回って、強いエネルギーが感じられる3つの地点を紹介していました。先日の散策の際にも、それぞれの箇所に立ち寄って、そこでしばらく時間を過ごしました。以前紹介した浅草のパワースポットとは違って、上野に関しては場所がかなりピンポイント的ですので、今回は写真だけを挙げておきます、あしからず…。
今回の3つの地点に関してですが、記事に書かれてあった説明によると、どの場所もやはり、かつて上野の山に威容を誇った「東叡山寛永寺」と深く関わりがあった場所のようです。
まず1つ目の場所です。ここは、天海僧正の弟子だった晃海(こうかい)僧正が、夢のお告げにより廃絶していた社を再建して、上野の山の守護神とした場所だそうです。この鳥居の奥にある神社の一画から、強いエネルギーが出ているそうです。

2つ目の場所です。ここは、かつて寛永寺の山門(吉祥閣)があった所で、小林さんの透視によると、外部の邪気が門によって阻まれ、良い気の状態が今もなお、保たれているそうです。詳細は控えますが、奇しくもこの場所(写真に写っていない上部)には現在、遠目から見ると円柱状の柱のようなモノが立っています。

3つ目の場所です。ここは、かつて寛永寺 子院の筆頭(凌雲院)があった所で、小林さんの透視によると、寺院内のしかるべき所に仏像が安置され、その像の放つエネルギーが今もなお、この場所に残存しているそうです。写真を見ればすぐに分かるかと思いますが、この場所にも奇しくもブロンズ像(上野を代表する野外彫刻の像)が置かれています。これは何かの因縁なのでしょうか、それとも単なる偶然なのでしょうか?

この3か所に関してですが、上野に来た際には出来るだけ立ち寄るようにしているのですが、1つ目と3つ目の地点はあまり感じられないのですが、2つ目の地点については毎回、その場所に手をかざすと暖かい空気が出ている感覚が必ずします。特に、冬の寒い時期などに訪れると、その暖かさがはっきりと分かります。
上野寛永寺を開いた天海僧正ですが、先日の散策後、天海に関連する書籍などを読み、その人物像を色々と調べているうちに、風水や気学など知識を駆使して、江戸の都市設計のマスタープランを作り上げた、とてつもない人物だった、という事実を知りました。
天海は、その土地が持つエネルギーを正確に読み取り、それを活用できた特殊な能力を持つ人物だったようで(未来に関する、ある種の予言的なアドバイスもしていたそうで)、その後、徳川政権が200年以上にわたって保たれたのは、天海がプラニングした、不可視なエネルギーを活用した都市設計が基盤にあったからこそ、と見る向きもあります。
また機会があれば、天海僧正の「隠された業績」の一部を紹介できばと思いますが、江戸時代の天海僧正といい、現代の小林世征さんといい、私たちの常識の範囲を超えた特殊な能力を持つ人というのは、どんな場所や時代にも確実に存在している、ということを改めて思った次第です。
ちなみに7月7日(日)、その小林世征さんご本人が案内してくれるパワースポット巡りが開催されます。
場所は本郷・湯島界隈です。私(サトセイ)も参加予定ですので、興味のある方は是非どうぞ!
第5回 エスパー小林と行く都内パワースポット巡り&ランチ In 本郷・湯島(夢源樹)
それから小林さん関連で、もう一つ…。今週発売の「週刊SPA!」(5/28・6/4合併号)に、「運気爆下げの逆パワースポット探訪」という記事が載っています。都内に拠点を置く某政党、某大企業、某国大使館の施設に関して、その場所(土地)が抱える問題点を小林さんが透視して、独自の見解を紹介しています。関係者が読んだらかなりショック(?)かもしれませんが、一読の価値ありですよ。
(前回の続き)
⑥寛永寺 五重塔
さて、寛永寺五重塔を近い場所からじっくり眺めるため、上野動物園の入場ゲートで600円を支払い、まっすぐ塔に向かいました。この五重塔は上野東照宮の造営時、佐倉城主の土井氏の寄進により建立されましたが、1639年に花見客の失火により焼失、その時に再建されたものが現在に残っています。
塔の高さは36m、第1~4層の屋根は瓦ぶき、最上部(第5層)の屋根のみが銅板ぶきで、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られています。また、第1層の壁面(東西南北の4つの面)には十二支の動物の像が施されています。実際に塔を間近で眺めてみると、とても保存状態が良く、細かい装飾も各所に施されていて、予想以上に立派で美しい塔でした。



ちなみ、五重塔の四方には小さな堀が巡らされていて、塔を近くから眺めたい人は、堀の外側の遊歩道から見学することになります。そんな見学者が立ち入れない堀の内側に、白鳥が佇んでいました。何とも、動物園らしい光景です。


五重塔を見学した後、これから他にもまだ見学予定の箇所が沢山あり、ほとんど時間に余裕が無かったのですが、せっかく入場料を払って動物園に入ったので、入場ゲート近くのパンダ舎にだけ寄ってきました。パンダは背中を向けてお昼寝中でした。

⑦上野公園 噴水広場
次に上野公園の中心部、噴水広場に向かいました。当日は日本各地の物産展のイベントが開催されていて、かなり賑わっていました。タイミング良く、ちょうど猿回しの演目が行なわれていました。



この広場には江戸時代、第5代徳川綱吉の頃から幕末の上野戦争まで、東叡山寛永寺の中心部にあたる根本中堂(総本堂)の大伽藍がありました。建物の高さは30m以上、間口と奥行は40m以上で、江戸随一の巨大建造物でした。そこに祀られた御本尊は、天台宗の宗祖、伝教大師 最澄の作とされる薬師瑠璃光如来像で、こちらは後ほど紹介する現在の寛永寺に、秘仏として安置されているそうです。噴水広場の先にある東京国立博物館の敷地には、かつて寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立されていました。
公園広場の何気ない風景の中、ふと足を止めて、江戸当時の荘厳な光景に思いを馳せました。
⑧寛永寺 開山堂(両大師堂)
次に向かったのは開山堂、今回が初めての見学となります。噴水広場のすぐ近くに位置するお寺ですが、先ほどの人混みの喧騒とは対照的に参拝者はおらず、とても静かな雰囲気の中で時間を過ごすことができました。ここは、東叡山寛永寺を開いた天海僧正、慈眼大師(じげんだいし)をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇していた良源僧正、慈惠大師(じえいだいし)も一緒にお祀りしていることから、一般に両大師と呼ばれています。

正門の脇に、天海僧正・良源僧正に関する詳しい説明文が掲げられています。良源僧正については殆ど知識がなかったのですが「厄除け大師」として信仰を集めたそうで、自分に憑りついた疫病神の姿をお札に写して人々に配ったところ皆、病気が治ったという逸話が紹介されていました。こちらが角大師と呼ばれる魔物の姿だそうです。

境内を入ると、手入れの行き届いた庭園が広がり、すぐ右手に阿弥陀堂があります。堂の中には奥に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩、右に虚空蔵菩薩が祀られています。また境内には、先ほど上野東照宮で見たのと同じような、かなり立派な銅灯篭がいくつも配置されていて、寺の格式を感じました。




こちらが本堂(内部の撮影はNG)、静かな堂内で参拝を済ませました。

堂内にあるお守り売り場に立ち寄り、そこに並ぶ品々を何気なく眺めていたところ、意外なものを発見!それは「教育まんが・天海さま」という漫画冊子で、天海僧正にまつわる様々なエピソードを漫画で分かりやすく紹介した子供向けの冊子です。子供向けとはいえ、天海僧正を知る上でかなり参考になりそうな内容だったので、迷わず購入しました。私が生まれる以前、昭和30年代頃(?)に描かれたような印象で、今どきの書店ではお目にかかれないような代物です。いまだに、こうした漫画を提供している開山堂の姿勢に、何故だかとても好感を覚えました。こちらがその冊子です。


⑨寛永寺 根本中堂
最後に向かったのは、現在の東叡山寛永寺・根本中堂です。こちらも今回が初めての訪問となります。江戸時代に威容を誇った寛永寺・根本中堂が、上野戦争で跡形もなく焼失した後、明治12年、川越喜多院の「本地堂」を移築して再建されたのが、現在の御堂です。こちらにも遅咲き桜が咲いていました。今日の散策を通じて色々と見聞を広めることができ、充実した時間を過ごせたことを、御堂を前で手を合わせて天海僧正にご挨拶しました。




境内には他にも、黄檗宗の僧(了扇禅師)の像、絵画の写生に使われた虫類の霊を供養する蟲塚(むしづか)、尾形乾山の墓碑・顕彰碑など、何とも意外な史跡が数多く点在していました。



NHKの大河ドラマ「篤姫」のファンだった私としては、天璋院が祀られている寛永寺の徳川歴代将軍霊廟を参拝したかったわけですが、以前の記事で紹介したもう1つの徳川家の菩提寺、芝・増上寺と同じく、徳川家霊廟の見学は通常できないため、根本中堂の前でご挨拶をさせて頂きました。ちなみに寛永寺のHPを見ると、5人以上の団体で事前申込みすれば見学可能だそうです。誰か一緒に行ってくれないかな…。
川越喜多院といえば、もともと天海僧正が住職をつとめた関東天台宗の総本山、上野寛永寺や徳川将軍家とも密接なつながりがあった由緒ある寺院ですね。10年以上前に一度、喜多院に行ったことがあるのですが、あまり時間をかけずに観光気分でサラッと見学したこともあり、ほとんど記憶に残っていない状況です。機会があれば改めて川越喜多院に、そして天海僧正の墓がある日光東照宮にも足を運んでみたいものです。

上野公園周辺の散策の様子は以上の通りです。訪れる度に新しい発見がある不思議な場所、上野という街は本当に奥が深い土地です。
⑥寛永寺 五重塔
さて、寛永寺五重塔を近い場所からじっくり眺めるため、上野動物園の入場ゲートで600円を支払い、まっすぐ塔に向かいました。この五重塔は上野東照宮の造営時、佐倉城主の土井氏の寄進により建立されましたが、1639年に花見客の失火により焼失、その時に再建されたものが現在に残っています。
塔の高さは36m、第1~4層の屋根は瓦ぶき、最上部(第5層)の屋根のみが銅板ぶきで、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られています。また、第1層の壁面(東西南北の4つの面)には十二支の動物の像が施されています。実際に塔を間近で眺めてみると、とても保存状態が良く、細かい装飾も各所に施されていて、予想以上に立派で美しい塔でした。



ちなみ、五重塔の四方には小さな堀が巡らされていて、塔を近くから眺めたい人は、堀の外側の遊歩道から見学することになります。そんな見学者が立ち入れない堀の内側に、白鳥が佇んでいました。何とも、動物園らしい光景です。


五重塔を見学した後、これから他にもまだ見学予定の箇所が沢山あり、ほとんど時間に余裕が無かったのですが、せっかく入場料を払って動物園に入ったので、入場ゲート近くのパンダ舎にだけ寄ってきました。パンダは背中を向けてお昼寝中でした。

⑦上野公園 噴水広場
次に上野公園の中心部、噴水広場に向かいました。当日は日本各地の物産展のイベントが開催されていて、かなり賑わっていました。タイミング良く、ちょうど猿回しの演目が行なわれていました。



この広場には江戸時代、第5代徳川綱吉の頃から幕末の上野戦争まで、東叡山寛永寺の中心部にあたる根本中堂(総本堂)の大伽藍がありました。建物の高さは30m以上、間口と奥行は40m以上で、江戸随一の巨大建造物でした。そこに祀られた御本尊は、天台宗の宗祖、伝教大師 最澄の作とされる薬師瑠璃光如来像で、こちらは後ほど紹介する現在の寛永寺に、秘仏として安置されているそうです。噴水広場の先にある東京国立博物館の敷地には、かつて寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立されていました。
公園広場の何気ない風景の中、ふと足を止めて、江戸当時の荘厳な光景に思いを馳せました。
⑧寛永寺 開山堂(両大師堂)
次に向かったのは開山堂、今回が初めての見学となります。噴水広場のすぐ近くに位置するお寺ですが、先ほどの人混みの喧騒とは対照的に参拝者はおらず、とても静かな雰囲気の中で時間を過ごすことができました。ここは、東叡山寛永寺を開いた天海僧正、慈眼大師(じげんだいし)をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇していた良源僧正、慈惠大師(じえいだいし)も一緒にお祀りしていることから、一般に両大師と呼ばれています。

正門の脇に、天海僧正・良源僧正に関する詳しい説明文が掲げられています。良源僧正については殆ど知識がなかったのですが「厄除け大師」として信仰を集めたそうで、自分に憑りついた疫病神の姿をお札に写して人々に配ったところ皆、病気が治ったという逸話が紹介されていました。こちらが角大師と呼ばれる魔物の姿だそうです。

境内を入ると、手入れの行き届いた庭園が広がり、すぐ右手に阿弥陀堂があります。堂の中には奥に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩、右に虚空蔵菩薩が祀られています。また境内には、先ほど上野東照宮で見たのと同じような、かなり立派な銅灯篭がいくつも配置されていて、寺の格式を感じました。




こちらが本堂(内部の撮影はNG)、静かな堂内で参拝を済ませました。

堂内にあるお守り売り場に立ち寄り、そこに並ぶ品々を何気なく眺めていたところ、意外なものを発見!それは「教育まんが・天海さま」という漫画冊子で、天海僧正にまつわる様々なエピソードを漫画で分かりやすく紹介した子供向けの冊子です。子供向けとはいえ、天海僧正を知る上でかなり参考になりそうな内容だったので、迷わず購入しました。私が生まれる以前、昭和30年代頃(?)に描かれたような印象で、今どきの書店ではお目にかかれないような代物です。いまだに、こうした漫画を提供している開山堂の姿勢に、何故だかとても好感を覚えました。こちらがその冊子です。


⑨寛永寺 根本中堂
最後に向かったのは、現在の東叡山寛永寺・根本中堂です。こちらも今回が初めての訪問となります。江戸時代に威容を誇った寛永寺・根本中堂が、上野戦争で跡形もなく焼失した後、明治12年、川越喜多院の「本地堂」を移築して再建されたのが、現在の御堂です。こちらにも遅咲き桜が咲いていました。今日の散策を通じて色々と見聞を広めることができ、充実した時間を過ごせたことを、御堂を前で手を合わせて天海僧正にご挨拶しました。




境内には他にも、黄檗宗の僧(了扇禅師)の像、絵画の写生に使われた虫類の霊を供養する蟲塚(むしづか)、尾形乾山の墓碑・顕彰碑など、何とも意外な史跡が数多く点在していました。



NHKの大河ドラマ「篤姫」のファンだった私としては、天璋院が祀られている寛永寺の徳川歴代将軍霊廟を参拝したかったわけですが、以前の記事で紹介したもう1つの徳川家の菩提寺、芝・増上寺と同じく、徳川家霊廟の見学は通常できないため、根本中堂の前でご挨拶をさせて頂きました。ちなみに寛永寺のHPを見ると、5人以上の団体で事前申込みすれば見学可能だそうです。誰か一緒に行ってくれないかな…。
川越喜多院といえば、もともと天海僧正が住職をつとめた関東天台宗の総本山、上野寛永寺や徳川将軍家とも密接なつながりがあった由緒ある寺院ですね。10年以上前に一度、喜多院に行ったことがあるのですが、あまり時間をかけずに観光気分でサラッと見学したこともあり、ほとんど記憶に残っていない状況です。機会があれば改めて川越喜多院に、そして天海僧正の墓がある日光東照宮にも足を運んでみたいものです。

上野公園周辺の散策の様子は以上の通りです。訪れる度に新しい発見がある不思議な場所、上野という街は本当に奥が深い土地です。
前回の記事でも触れたように、東京国立博物館「大神社展」を見学した当日、上野公園の周辺に点在する東叡山寛永寺 と 天海僧正にまつわる名所を、じっくりと時間をかけて見て廻りました。

詳しい地図はコチラ→ 上野の杜の散策図(東叡山寛永寺)
上野の山一帯は、かつて寛永寺の敷地だったということは以前から知っていましたが、昨年10月、実際に公園内の史跡・名所をいくつか見学したところ、ほとんどの場所に天海僧正が深く関わっていた事を知りました。
それとほぼ同じタイミングで、上野寛永寺を取り上げたテレビの番組をたまたま見たのですが、天海僧正が上野に寛永寺を創建した際、江戸の民衆が気軽に参拝できるよう、天台宗の総本山、比叡山延暦寺の周辺にある近江(滋賀)や京都にある名所を上野の山に再現して、滅多に旅行に行けない江戸庶民が観光気分を体験できるよう様々な計画を立てた、という説明がありました。
その番組では、“見立て”という言葉がキーワードとして使われていたのですが、そうした見立てを踏まえた上で実際に公園の史跡を見学すると俄然、面白みが倍増します。
ちなみに天海僧正についてですが、私が今まで知っていた天海僧正に関する知識といえば…
江戸時代初めに徳川家に仕えた僧で、日光東照宮の建築に携わっていたこと。100歳を超える超長寿の人で、出自に不明な点が多いため、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と同一人物だったという説があるといった程度でした。いずれにせよ、何やら色々と謎が多い人物という点でも、とても興味が惹かれたこともあり、天海ゆかりの史跡やお寺なども今回、初めて見てきました。
①天海僧正毛髪塔
まず最初に向かったのは、上野公園の中でも多分、ほとんど知られていない場所です。
上野公園の象徴、西郷隆盛像を少し進んだ先、上野の森美術館の目の前に、天海僧正にまつわる史跡がひっそりと佇んでいます。この場所にはかつて、寛永寺の子院・本覚寺があったそうです。
下の写真を見てわかるように、一見するとお墓のように見えますが、実際は供養塔(天海の弟子の晃海が建立したもの)で、のちに天海の毛髪が収められたそうです。天海僧正の実際のお墓は、日光山輪王寺にお祀りされています。当日、寛永寺に関連する場所を色々と見て廻る予定でしたので、まず最初に天海僧正の前で手を合わせ、ご挨拶を済ませました。


②寛永寺 清水観音堂
毛髪塔から歩いてすぐの場所に、朱色の外観が美しい清水観音堂があります。“観音堂”の名前の通り、ご本尊は比叡山の恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる千手観音菩薩、秘仏だそうです。
こちらの観音堂は、京都東山の清水寺の舞台造りを見立てて建立されたそうです。確かに本堂の目の前には、赤い欄干に囲われた広い板敷の床があり、「清水の舞台」を彷彿とさせます。現在は、木々がかなり成長して遠くを見渡すことができませんが、かつてはこの舞台から不忍池を一望できたそうです。さぞかし良い眺めだったことでしょう。


舞台の目の前の斜面に、枝がグルリを輪を描いたような、とても変わった形の松が植えられていました。これは江戸時代、歌川広重の「名所江戸百景」の中で描かれた「月の松」を現在に復活させた松で、今年1月にお披露目されたそうです。他ではお目に掛かれない何とも珍しい光景です。
歌川広重名所江戸百景 上野山内月のまつ(アダチ版画)


③不忍池弁財天
清水観音堂の横にある坂道をそのまま真っすぐ下っていくと、開放的な風景が広がる不忍池に出ます。当日はまだ遅咲きの桜が残っていて、美しい景色を堪能できました。

さらに進むと、池の中央に大きな弁財天があります。天海僧正はかつて、ここ不忍池を比叡山の東に広がる琵琶湖に見立て、さらに池の中に人口の島を築かせて琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に見立てて、不忍池弁天堂を建立したそうです。
私はまだ一度も見に行ったことがないのですが、こちらの弁財天は金運アップが大いに期待できる、毎年9月に開催される「巳成金(みなるかね)大祭」がとても有名ですね。弁財天といえば芸能の神様、楽器の琵琶を手にしている姿が定番です。そんなこともあり、観音堂の前には巨大な琵琶の像が置かれていました。




この場所には大正時代、弁天堂の目の前に天竜門という門が造られたそうです。以前からこのブログの記事の中で、異形の建築家で“妖怪博士”とも呼ばれた伊東忠太について何度も触れてきましたが、昨年発売された『東京人』12月号の伊東忠太の特集記事の中で、伊東自身が自らの設計した建築物の中で、最も気に入っていたものが天竜門だったという話しが紹介されていました。
戦時中の空襲で弁天堂・天竜門ともに消失し、弁天堂は戦後に再建されましたが、天竜門は幻の遺構となってしまいました。実は『東京人』の記事中に、戦前に撮影された天竜門の貴重な写真が掲載されていました。先日の記事で紹介した大倉集古館の外観と、どことなく似ています。

④上野大仏
再び上野公園に戻って次に向かったのは、公園内の小高い丘の上にある上野大仏です。この大仏、意外にも存在自体を知らない人が結構多いようです。
かつての像は高さ約6m、釈迦如来坐像でした。度重なる罹災によって損壊し、現在では関東大震災時に落下した顔面部だけが、レリーフとして残っています。その横には、かつての大仏を撮影した写真が飾られています。「もうこれ以上落ちない」ということから、最近は「合格大仏」として親しまれているそうで、参拝客が残していった合格絵馬が所狭しと掛けられていました。




この大仏は元々、越後村上藩主の堀氏が戦死者の慰霊のために、1630年代に建立したのが始まりなのだそうですが、実はこの大仏も、当時の京都の一大名所に見立てて建立された、という事実を知りました。今となっては想像もつきませんが、江戸時代初め、京都の方広寺(ほうこうじ)に、奈良・東大寺の大仏を遙かに凌ぐ巨大な大仏が建立されました。
私たちが真っ先にイメージする奈良の大仏ですが、当時は戦国時代の兵火の影響で大仏の頭部は破損し、大仏殿も完全に消失してしまい、18世紀初めに大規模な補修・修築が完了するまでの間、大仏は野ざらし状態だったそうです。したがって、江戸時代初めの日本人にとって「大仏」といえば、奈良の朽ち果てた大仏ではなく、京都に新たに造営された巨大な大仏を指すのが一般的だったそうです。その京都・方広寺の大仏を見立てて造られたのが、上野大仏だったのだそうです。う~ん、色々と勉強になります。
⑤上野東照宮
次に向かったのは「上野東照宮」です。東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様として祀る神社のことで、日光東照宮や静岡の久能山東照宮は特に有名ですね。徳川家ゆかりの上野寛永寺内にも東照宮が建立されましたが、戦後の神仏分離令によって寛永寺から独立、現在に至るそうです。残念ながら現在、社殿は改築中で中の様子をうかがい知ることはできませんが、それにしても参道の入り口から続く石灯篭、それに参道奥に並ぶ銅灯篭がどれもかなり大きく、何とも壮観な風景です。




この上野東照宮には何回か参拝に来たことがあったのですが、境内を囲う柵の向こう側の木々の間からチラチラと見える五重塔を、今まで間近で見学したことが一度もありませんでした。

見学者が立ち入れない境内の敷地にでも建っているのだろう…と、これまで勝手に思い込んでいたのですが、柵のあたりを歩いていたところ、五重塔は寛永寺に隣接する上野動物園が管理していて、入場料を払って動物園に入れば五重塔を近くで見学できる、といった内容の看板が掛かっていました。恥ずかしながら、まったく全く不覚でした。とりもなおさず、上野動物園の入場ゲートに直行したわけですが、ここから先は長くなりますので、続きは次回ということで…。
(続く)

詳しい地図はコチラ→ 上野の杜の散策図(東叡山寛永寺)
上野の山一帯は、かつて寛永寺の敷地だったということは以前から知っていましたが、昨年10月、実際に公園内の史跡・名所をいくつか見学したところ、ほとんどの場所に天海僧正が深く関わっていた事を知りました。
それとほぼ同じタイミングで、上野寛永寺を取り上げたテレビの番組をたまたま見たのですが、天海僧正が上野に寛永寺を創建した際、江戸の民衆が気軽に参拝できるよう、天台宗の総本山、比叡山延暦寺の周辺にある近江(滋賀)や京都にある名所を上野の山に再現して、滅多に旅行に行けない江戸庶民が観光気分を体験できるよう様々な計画を立てた、という説明がありました。
その番組では、“見立て”という言葉がキーワードとして使われていたのですが、そうした見立てを踏まえた上で実際に公園の史跡を見学すると俄然、面白みが倍増します。
ちなみに天海僧正についてですが、私が今まで知っていた天海僧正に関する知識といえば…
江戸時代初めに徳川家に仕えた僧で、日光東照宮の建築に携わっていたこと。100歳を超える超長寿の人で、出自に不明な点が多いため、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と同一人物だったという説があるといった程度でした。いずれにせよ、何やら色々と謎が多い人物という点でも、とても興味が惹かれたこともあり、天海ゆかりの史跡やお寺なども今回、初めて見てきました。
①天海僧正毛髪塔
まず最初に向かったのは、上野公園の中でも多分、ほとんど知られていない場所です。
上野公園の象徴、西郷隆盛像を少し進んだ先、上野の森美術館の目の前に、天海僧正にまつわる史跡がひっそりと佇んでいます。この場所にはかつて、寛永寺の子院・本覚寺があったそうです。
下の写真を見てわかるように、一見するとお墓のように見えますが、実際は供養塔(天海の弟子の晃海が建立したもの)で、のちに天海の毛髪が収められたそうです。天海僧正の実際のお墓は、日光山輪王寺にお祀りされています。当日、寛永寺に関連する場所を色々と見て廻る予定でしたので、まず最初に天海僧正の前で手を合わせ、ご挨拶を済ませました。


②寛永寺 清水観音堂
毛髪塔から歩いてすぐの場所に、朱色の外観が美しい清水観音堂があります。“観音堂”の名前の通り、ご本尊は比叡山の恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる千手観音菩薩、秘仏だそうです。
こちらの観音堂は、京都東山の清水寺の舞台造りを見立てて建立されたそうです。確かに本堂の目の前には、赤い欄干に囲われた広い板敷の床があり、「清水の舞台」を彷彿とさせます。現在は、木々がかなり成長して遠くを見渡すことができませんが、かつてはこの舞台から不忍池を一望できたそうです。さぞかし良い眺めだったことでしょう。


舞台の目の前の斜面に、枝がグルリを輪を描いたような、とても変わった形の松が植えられていました。これは江戸時代、歌川広重の「名所江戸百景」の中で描かれた「月の松」を現在に復活させた松で、今年1月にお披露目されたそうです。他ではお目に掛かれない何とも珍しい光景です。
歌川広重名所江戸百景 上野山内月のまつ(アダチ版画)


③不忍池弁財天
清水観音堂の横にある坂道をそのまま真っすぐ下っていくと、開放的な風景が広がる不忍池に出ます。当日はまだ遅咲きの桜が残っていて、美しい景色を堪能できました。

さらに進むと、池の中央に大きな弁財天があります。天海僧正はかつて、ここ不忍池を比叡山の東に広がる琵琶湖に見立て、さらに池の中に人口の島を築かせて琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に見立てて、不忍池弁天堂を建立したそうです。
私はまだ一度も見に行ったことがないのですが、こちらの弁財天は金運アップが大いに期待できる、毎年9月に開催される「巳成金(みなるかね)大祭」がとても有名ですね。弁財天といえば芸能の神様、楽器の琵琶を手にしている姿が定番です。そんなこともあり、観音堂の前には巨大な琵琶の像が置かれていました。




この場所には大正時代、弁天堂の目の前に天竜門という門が造られたそうです。以前からこのブログの記事の中で、異形の建築家で“妖怪博士”とも呼ばれた伊東忠太について何度も触れてきましたが、昨年発売された『東京人』12月号の伊東忠太の特集記事の中で、伊東自身が自らの設計した建築物の中で、最も気に入っていたものが天竜門だったという話しが紹介されていました。
戦時中の空襲で弁天堂・天竜門ともに消失し、弁天堂は戦後に再建されましたが、天竜門は幻の遺構となってしまいました。実は『東京人』の記事中に、戦前に撮影された天竜門の貴重な写真が掲載されていました。先日の記事で紹介した大倉集古館の外観と、どことなく似ています。

④上野大仏
再び上野公園に戻って次に向かったのは、公園内の小高い丘の上にある上野大仏です。この大仏、意外にも存在自体を知らない人が結構多いようです。
かつての像は高さ約6m、釈迦如来坐像でした。度重なる罹災によって損壊し、現在では関東大震災時に落下した顔面部だけが、レリーフとして残っています。その横には、かつての大仏を撮影した写真が飾られています。「もうこれ以上落ちない」ということから、最近は「合格大仏」として親しまれているそうで、参拝客が残していった合格絵馬が所狭しと掛けられていました。




この大仏は元々、越後村上藩主の堀氏が戦死者の慰霊のために、1630年代に建立したのが始まりなのだそうですが、実はこの大仏も、当時の京都の一大名所に見立てて建立された、という事実を知りました。今となっては想像もつきませんが、江戸時代初め、京都の方広寺(ほうこうじ)に、奈良・東大寺の大仏を遙かに凌ぐ巨大な大仏が建立されました。
私たちが真っ先にイメージする奈良の大仏ですが、当時は戦国時代の兵火の影響で大仏の頭部は破損し、大仏殿も完全に消失してしまい、18世紀初めに大規模な補修・修築が完了するまでの間、大仏は野ざらし状態だったそうです。したがって、江戸時代初めの日本人にとって「大仏」といえば、奈良の朽ち果てた大仏ではなく、京都に新たに造営された巨大な大仏を指すのが一般的だったそうです。その京都・方広寺の大仏を見立てて造られたのが、上野大仏だったのだそうです。う~ん、色々と勉強になります。
⑤上野東照宮
次に向かったのは「上野東照宮」です。東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様として祀る神社のことで、日光東照宮や静岡の久能山東照宮は特に有名ですね。徳川家ゆかりの上野寛永寺内にも東照宮が建立されましたが、戦後の神仏分離令によって寛永寺から独立、現在に至るそうです。残念ながら現在、社殿は改築中で中の様子をうかがい知ることはできませんが、それにしても参道の入り口から続く石灯篭、それに参道奥に並ぶ銅灯篭がどれもかなり大きく、何とも壮観な風景です。




この上野東照宮には何回か参拝に来たことがあったのですが、境内を囲う柵の向こう側の木々の間からチラチラと見える五重塔を、今まで間近で見学したことが一度もありませんでした。

見学者が立ち入れない境内の敷地にでも建っているのだろう…と、これまで勝手に思い込んでいたのですが、柵のあたりを歩いていたところ、五重塔は寛永寺に隣接する上野動物園が管理していて、入場料を払って動物園に入れば五重塔を近くで見学できる、といった内容の看板が掛かっていました。恥ずかしながら、まったく全く不覚でした。とりもなおさず、上野動物園の入場ゲートに直行したわけですが、ここから先は長くなりますので、続きは次回ということで…。
(続く)
4月の初め、上野の東京国立博物館(トーハク)で開催中の「大神社展」を見学しに行きました。以前のブログでも書いたように、今年の6月2日に神社検定(弐級)を受験する予定で、現在、分厚いテキスト2冊と悪戦苦闘している最中です。テキストを読むだけでは本当の知識は身につかない、実地での勉強が何より大事ということもあって、開催日早々に上野に足を運びました。
大神社展 東京国立博物館


実は今回のトーハク訪問には、もう1つ別の目的がありました。毎年春と秋の年2回、通常立ち入り禁止の博物館北側の庭園が期間限定で開放されます。以前から、歴史ある茶室を移築した日本庭園をじっくり鑑賞してみたいと思っていたのですが、今回、「大神社展」の見学日が庭園開放期間と重なったこともあって、トーハクに入館した後、まずは北側の庭園から見て廻ることにしました(庭園内にある建物や史跡の来歴については、以下に詳しく紹介されています。参考までに)
東京国立博物館 庭園・茶室
庭園内に移築されている建物や茶室の数々、いずれも昔の姿を留めて何とも風情があります。現在でも茶室は、お茶会などで利用できるそうです。自分もいつかは、お茶を嗜むことが出来るようになりたいものです。





庭園の中央には広い池があります、池越しに見える庭園の緑と茶室の風景、日本画の題材になりそうな素晴らしい景色です。



庭園見学を終えて、いよいよ「大神社展」へ。昨年10月、同じくトーハクで開催された「出雲展」を見学しに行った記事を書きました。前回の展覧会も勿論、文句なしに素晴らしかったのですが、今回は全国各地の有名な神社の宝物が大集合し、格段にスケールアップした展示内容でした。
入館時に受け取った案内チラシに「国宝・重文160件、神社パワー全開!」というキャッチコピーが載っていたのですが、実際に展示会場に入って納得、1つ1つの展示品がどれもが由緒のある品々ばかりで、パワー全開という言葉に偽りは無いと実感しました。まさに展示会場自体がパワースポットといった感じです。素晴らしい宝物の中でも、特に印象に残った品々をいくつか紹介しましょう。
特に壮観だったのは、私自身、これまでほとんど見たことの無い数多くの神像が、全国各地の神社から集められてズラリと並んでいた光景です。仏像に関しては、日本人なら誰もが馴染みがある像といえますが、神像となると、ほとんどお目に掛かることは無いかと思います。男神・女神・童形神・武装神・僧形神・子守神などなど、どの像を見ても、神と崇められた人たちの当時の様子(服装、髪形、服飾品など)を伺い知ることができて、とても興味深かったです。
展示品の中でも、際立って歴史を感じさせる宝物がありました。「七枝刀(しちしとう)」という鉄剣で、国宝です。奈良県の石上(いそのかみ)神宮の所蔵品で、4世紀、百済王から倭王に贈られたとされる剣だそうです。数年前、奈良旅行をした際に石上神宮に初めて参拝に行ったのですが、日本最古の神社の一つに数えられ拝殿が国宝という、何とも荘厳な雰囲気が漂う神社でした。石上神宮でも、特別拝観の時以外は、この七枝刀を見学することはできないとのこと。そういえば、現在勉強中の神社検定弐級のテキスト内に、石上神社の来歴と七枝刀が解説されていました。今回は貴重な実物を見学できて、またとない良い機会でした。
石上神宮 宝物
数多い展示品の中でも最も印象深かったのが、和歌山県・鞆淵八幡神社の「沃懸地螺鈿金銅装神輿
(いかけじらでんこんどうそうしんよ)」です。平安時代の12世紀に造られた神輿(おみこし)で、後堀川天皇の勅命により石清水八幡宮勧請の際に奉送されたと伝えられています。平安時代の神輿が、こんなに良い状態のまま現存しているとは…これは奇跡に近いです。実際に人を上に乗せて運べる位の大きさがあり、当初の神輿は、「ワッショイ、ワッショイ」と威勢よく担ぐようなモノではなかったことが分かります。現在に伝わる日本の神輿のルーツを見て取ることが出来ました。
沃懸地螺鈿金銅装神輿 粉河町内の文化財
今回の展覧会、個人的には神社検定の勉強をする上で、とても参考になりました。日本古来の神社や神道の奥深さを体験できる貴重な場ですので、色々な人にお勧めしたい次第です。ちなみに展覧会の見学後、「大神社展」のグッズ売り場でお土産を購入しました。これです(神社だけにジンジャー)。

トーハクの庭園、それに「大神社展」、両方ともに素晴らしかったのですが、実は今回、トーハクに向かう前に、上野公園周辺を色々と散策してきました。これまでの記事にも書いてきたように、最近、上野を訪れる機会が何度かあり(国立科学博物館のステンドグラスや、小林世征さんの紹介するパワースポットなど)、そこにある史跡の見学を通して上野の歴史を調べるうちに、江戸時代に開山した東叡山寛永寺と、それに深く関わった天海僧正の事績を、色々と知ることになりました。そんな初めて知った知識の確認も兼ねて今回、改めて上野公園周辺をじっくり散策してきました。次回の記事で紹介したいと思います。
大神社展 東京国立博物館


実は今回のトーハク訪問には、もう1つ別の目的がありました。毎年春と秋の年2回、通常立ち入り禁止の博物館北側の庭園が期間限定で開放されます。以前から、歴史ある茶室を移築した日本庭園をじっくり鑑賞してみたいと思っていたのですが、今回、「大神社展」の見学日が庭園開放期間と重なったこともあって、トーハクに入館した後、まずは北側の庭園から見て廻ることにしました(庭園内にある建物や史跡の来歴については、以下に詳しく紹介されています。参考までに)
東京国立博物館 庭園・茶室
庭園内に移築されている建物や茶室の数々、いずれも昔の姿を留めて何とも風情があります。現在でも茶室は、お茶会などで利用できるそうです。自分もいつかは、お茶を嗜むことが出来るようになりたいものです。





庭園の中央には広い池があります、池越しに見える庭園の緑と茶室の風景、日本画の題材になりそうな素晴らしい景色です。



庭園見学を終えて、いよいよ「大神社展」へ。昨年10月、同じくトーハクで開催された「出雲展」を見学しに行った記事を書きました。前回の展覧会も勿論、文句なしに素晴らしかったのですが、今回は全国各地の有名な神社の宝物が大集合し、格段にスケールアップした展示内容でした。
入館時に受け取った案内チラシに「国宝・重文160件、神社パワー全開!」というキャッチコピーが載っていたのですが、実際に展示会場に入って納得、1つ1つの展示品がどれもが由緒のある品々ばかりで、パワー全開という言葉に偽りは無いと実感しました。まさに展示会場自体がパワースポットといった感じです。素晴らしい宝物の中でも、特に印象に残った品々をいくつか紹介しましょう。
特に壮観だったのは、私自身、これまでほとんど見たことの無い数多くの神像が、全国各地の神社から集められてズラリと並んでいた光景です。仏像に関しては、日本人なら誰もが馴染みがある像といえますが、神像となると、ほとんどお目に掛かることは無いかと思います。男神・女神・童形神・武装神・僧形神・子守神などなど、どの像を見ても、神と崇められた人たちの当時の様子(服装、髪形、服飾品など)を伺い知ることができて、とても興味深かったです。
展示品の中でも、際立って歴史を感じさせる宝物がありました。「七枝刀(しちしとう)」という鉄剣で、国宝です。奈良県の石上(いそのかみ)神宮の所蔵品で、4世紀、百済王から倭王に贈られたとされる剣だそうです。数年前、奈良旅行をした際に石上神宮に初めて参拝に行ったのですが、日本最古の神社の一つに数えられ拝殿が国宝という、何とも荘厳な雰囲気が漂う神社でした。石上神宮でも、特別拝観の時以外は、この七枝刀を見学することはできないとのこと。そういえば、現在勉強中の神社検定弐級のテキスト内に、石上神社の来歴と七枝刀が解説されていました。今回は貴重な実物を見学できて、またとない良い機会でした。
石上神宮 宝物
数多い展示品の中でも最も印象深かったのが、和歌山県・鞆淵八幡神社の「沃懸地螺鈿金銅装神輿
(いかけじらでんこんどうそうしんよ)」です。平安時代の12世紀に造られた神輿(おみこし)で、後堀川天皇の勅命により石清水八幡宮勧請の際に奉送されたと伝えられています。平安時代の神輿が、こんなに良い状態のまま現存しているとは…これは奇跡に近いです。実際に人を上に乗せて運べる位の大きさがあり、当初の神輿は、「ワッショイ、ワッショイ」と威勢よく担ぐようなモノではなかったことが分かります。現在に伝わる日本の神輿のルーツを見て取ることが出来ました。
沃懸地螺鈿金銅装神輿 粉河町内の文化財
今回の展覧会、個人的には神社検定の勉強をする上で、とても参考になりました。日本古来の神社や神道の奥深さを体験できる貴重な場ですので、色々な人にお勧めしたい次第です。ちなみに展覧会の見学後、「大神社展」のグッズ売り場でお土産を購入しました。これです(神社だけにジンジャー)。

トーハクの庭園、それに「大神社展」、両方ともに素晴らしかったのですが、実は今回、トーハクに向かう前に、上野公園周辺を色々と散策してきました。これまでの記事にも書いてきたように、最近、上野を訪れる機会が何度かあり(国立科学博物館のステンドグラスや、小林世征さんの紹介するパワースポットなど)、そこにある史跡の見学を通して上野の歴史を調べるうちに、江戸時代に開山した東叡山寛永寺と、それに深く関わった天海僧正の事績を、色々と知ることになりました。そんな初めて知った知識の確認も兼ねて今回、改めて上野公園周辺をじっくり散策してきました。次回の記事で紹介したいと思います。