Category : 歴史
(前回の続き)

寛永寺 五重塔
さて、寛永寺五重塔を近い場所からじっくり眺めるため、上野動物園の入場ゲートで600円を支払い、まっすぐ塔に向かいました。この五重塔は上野東照宮の造営時、佐倉城主の土井氏の寄進により建立されましたが、1639年に花見客の失火により焼失、その時に再建されたものが現在に残っています。

塔の高さは36m、第1~4層の屋根は瓦ぶき、最上部(第5層)の屋根のみが銅板ぶきで、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られています。また、第1層の壁面(東西南北の4つの面)には十二支の動物の像が施されています。実際に塔を間近で眺めてみると、とても保存状態が良く、細かい装飾も各所に施されていて、予想以上に立派で美しい塔でした。

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ちなみ、五重塔の四方には小さな堀が巡らされていて、塔を近くから眺めたい人は、堀の外側の遊歩道から見学することになります。そんな見学者が立ち入れない堀の内側に、白鳥が佇んでいました。何とも、動物園らしい光景です。

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五重塔を見学した後、これから他にもまだ見学予定の箇所が沢山あり、ほとんど時間に余裕が無かったのですが、せっかく入場料を払って動物園に入ったので、入場ゲート近くのパンダ舎にだけ寄ってきました。パンダは背中を向けてお昼寝中でした。

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上野公園 噴水広場
次に上野公園の中心部、噴水広場に向かいました。当日は日本各地の物産展のイベントが開催されていて、かなり賑わっていました。タイミング良く、ちょうど猿回しの演目が行なわれていました。

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この広場には江戸時代、第5代徳川綱吉の頃から幕末の上野戦争まで、東叡山寛永寺の中心部にあたる根本中堂(総本堂)の大伽藍がありました。建物の高さは30m以上、間口と奥行は40m以上で、江戸随一の巨大建造物でした。そこに祀られた御本尊は、天台宗の宗祖、伝教大師 最澄の作とされる薬師瑠璃光如来像で、こちらは後ほど紹介する現在の寛永寺に、秘仏として安置されているそうです。噴水広場の先にある東京国立博物館の敷地には、かつて寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立されていました。

公園広場の何気ない風景の中、ふと足を止めて、江戸当時の荘厳な光景に思いを馳せました。


寛永寺 開山堂(両大師堂)
次に向かったのは開山堂、今回が初めての見学となります。噴水広場のすぐ近くに位置するお寺ですが、先ほどの人混みの喧騒とは対照的に参拝者はおらず、とても静かな雰囲気の中で時間を過ごすことができました。ここは、東叡山寛永寺を開いた天海僧正、慈眼大師(じげんだいし)をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇していた良源僧正慈惠大師(じえいだいし)も一緒にお祀りしていることから、一般に両大師と呼ばれています。

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正門の脇に、天海僧正・良源僧正に関する詳しい説明文が掲げられています。良源僧正については殆ど知識がなかったのですが「厄除け大師」として信仰を集めたそうで、自分に憑りついた疫病神の姿をお札に写して人々に配ったところ皆、病気が治ったという逸話が紹介されていました。こちらが角大師と呼ばれる魔物の姿だそうです。

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境内を入ると、手入れの行き届いた庭園が広がり、すぐ右手に阿弥陀堂があります。堂の中には奥に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩、右に虚空蔵菩薩が祀られています。また境内には、先ほど上野東照宮で見たのと同じような、かなり立派な銅灯篭がいくつも配置されていて、寺の格式を感じました。

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こちらが本堂(内部の撮影はNG)、静かな堂内で参拝を済ませました。

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堂内にあるお守り売り場に立ち寄り、そこに並ぶ品々を何気なく眺めていたところ、意外なものを発見!それは「教育まんが・天海さま」という漫画冊子で、天海僧正にまつわる様々なエピソードを漫画で分かりやすく紹介した子供向けの冊子です。子供向けとはいえ、天海僧正を知る上でかなり参考になりそうな内容だったので、迷わず購入しました。私が生まれる以前、昭和30年代頃(?)に描かれたような印象で、今どきの書店ではお目にかかれないような代物です。いまだに、こうした漫画を提供している開山堂の姿勢に、何故だかとても好感を覚えました。こちらがその冊子です。

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寛永寺 根本中堂
最後に向かったのは、現在の東叡山寛永寺・根本中堂です。こちらも今回が初めての訪問となります。江戸時代に威容を誇った寛永寺・根本中堂が、上野戦争で跡形もなく焼失した後、明治12年、川越喜多院の「本地堂」を移築して再建されたのが、現在の御堂です。こちらにも遅咲き桜が咲いていました。今日の散策を通じて色々と見聞を広めることができ、充実した時間を過ごせたことを、御堂を前で手を合わせて天海僧正にご挨拶しました。

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境内には他にも、黄檗宗の僧(了扇禅師)の像、絵画の写生に使われた虫類の霊を供養する蟲塚(むしづか)、尾形乾山の墓碑・顕彰碑など、何とも意外な史跡が数多く点在していました。

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NHKの大河ドラマ「篤姫」のファンだった私としては、天璋院が祀られている寛永寺の徳川歴代将軍霊廟を参拝したかったわけですが、以前の記事で紹介したもう1つの徳川家の菩提寺、芝・増上寺と同じく、徳川家霊廟の見学は通常できないため、根本中堂の前でご挨拶をさせて頂きました。ちなみに寛永寺のHPを見ると、5人以上の団体で事前申込みすれば見学可能だそうです。誰か一緒に行ってくれないかな…。

川越喜多院といえば、もともと天海僧正が住職をつとめた関東天台宗の総本山、上野寛永寺や徳川将軍家とも密接なつながりがあった由緒ある寺院ですね。10年以上前に一度、喜多院に行ったことがあるのですが、あまり時間をかけずに観光気分でサラッと見学したこともあり、ほとんど記憶に残っていない状況です。機会があれば改めて川越喜多院に、そして天海僧正の墓がある日光東照宮にも足を運んでみたいものです。

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上野公園周辺の散策の様子は以上の通りです。訪れる度に新しい発見がある不思議な場所、上野という街は本当に奥が深い土地です。

前回の記事でも触れたように、東京国立博物館「大神社展」を見学した当日、上野公園の周辺に点在する東叡山寛永寺天海僧正にまつわる名所を、じっくりと時間をかけて見て廻りました。

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詳しい地図はコチラ→ 上野の杜の散策図(東叡山寛永寺)

上野の山一帯は、かつて寛永寺の敷地だったということは以前から知っていましたが、昨年10月、実際に公園内の史跡・名所をいくつか見学したところ、ほとんどの場所に天海僧正が深く関わっていた事を知りました。

それとほぼ同じタイミングで、上野寛永寺を取り上げたテレビの番組をたまたま見たのですが、天海僧正が上野に寛永寺を創建した際、江戸の民衆が気軽に参拝できるよう、天台宗の総本山、比叡山延暦寺の周辺にある近江(滋賀)や京都にある名所を上野の山に再現して、滅多に旅行に行けない江戸庶民が観光気分を体験できるよう様々な計画を立てた、という説明がありました。

その番組では、“見立て”という言葉がキーワードとして使われていたのですが、そうした見立てを踏まえた上で実際に公園の史跡を見学すると俄然、面白みが倍増します。

ちなみに天海僧正についてですが、私が今まで知っていた天海僧正に関する知識といえば…
江戸時代初めに徳川家に仕えた僧で、日光東照宮の建築に携わっていたこと。100歳を超える超長寿の人で、出自に不明な点が多いため、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と同一人物だったという説があるといった程度でした。いずれにせよ、何やら色々と謎が多い人物という点でも、とても興味が惹かれたこともあり、天海ゆかりの史跡やお寺なども今回、初めて見てきました。



天海僧正毛髪塔
まず最初に向かったのは、上野公園の中でも多分、ほとんど知られていない場所です。
上野公園の象徴、西郷隆盛像を少し進んだ先、上野の森美術館の目の前に、天海僧正にまつわる史跡がひっそりと佇んでいます。この場所にはかつて、寛永寺の子院・本覚寺があったそうです。

下の写真を見てわかるように、一見するとお墓のように見えますが、実際は供養塔(天海の弟子の晃海が建立したもの)で、のちに天海の毛髪が収められたそうです。天海僧正の実際のお墓は、日光山輪王寺にお祀りされています。当日、寛永寺に関連する場所を色々と見て廻る予定でしたので、まず最初に天海僧正の前で手を合わせ、ご挨拶を済ませました。

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寛永寺 清水観音堂
毛髪塔から歩いてすぐの場所に、朱色の外観が美しい清水観音堂があります。“観音堂”の名前の通り、ご本尊は比叡山の恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる千手観音菩薩、秘仏だそうです。

こちらの観音堂は、京都東山の清水寺の舞台造りを見立てて建立されたそうです。確かに本堂の目の前には、赤い欄干に囲われた広い板敷の床があり、「清水の舞台」を彷彿とさせます。現在は、木々がかなり成長して遠くを見渡すことができませんが、かつてはこの舞台から不忍池を一望できたそうです。さぞかし良い眺めだったことでしょう。

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舞台の目の前の斜面に、枝がグルリを輪を描いたような、とても変わった形の松が植えられていました。これは江戸時代、歌川広重の「名所江戸百景」の中で描かれた「月の松」を現在に復活させた松で、今年1月にお披露目されたそうです。他ではお目に掛かれない何とも珍しい光景です。

歌川広重名所江戸百景 上野山内月のまつ(アダチ版画)

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不忍池弁財天
清水観音堂の横にある坂道をそのまま真っすぐ下っていくと、開放的な風景が広がる不忍池に出ます。当日はまだ遅咲きの桜が残っていて、美しい景色を堪能できました。

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さらに進むと、池の中央に大きな弁財天があります。天海僧正はかつて、ここ不忍池を比叡山の東に広がる琵琶湖に見立て、さらに池の中に人口の島を築かせて琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に見立てて、不忍池弁天堂を建立したそうです。

私はまだ一度も見に行ったことがないのですが、こちらの弁財天は金運アップが大いに期待できる、毎年9月に開催される「巳成金(みなるかね)大祭」がとても有名ですね。弁財天といえば芸能の神様、楽器の琵琶を手にしている姿が定番です。そんなこともあり、観音堂の前には巨大な琵琶の像が置かれていました。

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この場所には大正時代、弁天堂の目の前に天竜門という門が造られたそうです。以前からこのブログの記事の中で、異形の建築家で“妖怪博士”とも呼ばれた伊東忠太について何度も触れてきましたが、昨年発売された『東京人』12月号の伊東忠太の特集記事の中で、伊東自身が自らの設計した建築物の中で、最も気に入っていたものが天竜門だったという話しが紹介されていました

戦時中の空襲で弁天堂・天竜門ともに消失し、弁天堂は戦後に再建されましたが、天竜門は幻の遺構となってしまいました。実は『東京人』の記事中に、戦前に撮影された天竜門の貴重な写真が掲載されていました。先日の記事で紹介した大倉集古館の外観と、どことなく似ています。

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上野大仏
再び上野公園に戻って次に向かったのは、公園内の小高い丘の上にある上野大仏です。この大仏、意外にも存在自体を知らない人が結構多いようです。

かつての像は高さ約6m、釈迦如来坐像でした。度重なる罹災によって損壊し、現在では関東大震災時に落下した顔面部だけが、レリーフとして残っています。その横には、かつての大仏を撮影した写真が飾られています。「もうこれ以上落ちない」ということから、最近は「合格大仏」として親しまれているそうで、参拝客が残していった合格絵馬が所狭しと掛けられていました。

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この大仏は元々、越後村上藩主の堀氏が戦死者の慰霊のために、1630年代に建立したのが始まりなのだそうですが、実はこの大仏も、当時の京都の一大名所に見立てて建立された、という事実を知りました。今となっては想像もつきませんが、江戸時代初め、京都の方広寺(ほうこうじ)に、奈良・東大寺の大仏を遙かに凌ぐ巨大な大仏が建立されました。

私たちが真っ先にイメージする奈良の大仏ですが、当時は戦国時代の兵火の影響で大仏の頭部は破損し、大仏殿も完全に消失してしまい、18世紀初めに大規模な補修・修築が完了するまでの間、大仏は野ざらし状態だったそうです。したがって、江戸時代初めの日本人にとって「大仏」といえば、奈良の朽ち果てた大仏ではなく、京都に新たに造営された巨大な大仏を指すのが一般的だったそうです。その京都・方広寺の大仏を見立てて造られたのが、上野大仏だったのだそうです。う~ん、色々と勉強になります。


上野東照宮
次に向かったのは「上野東照宮」です。東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様として祀る神社のことで、日光東照宮や静岡の久能山東照宮は特に有名ですね。徳川家ゆかりの上野寛永寺内にも東照宮が建立されましたが、戦後の神仏分離令によって寛永寺から独立、現在に至るそうです。残念ながら現在、社殿は改築中で中の様子をうかがい知ることはできませんが、それにしても参道の入り口から続く石灯篭、それに参道奥に並ぶ銅灯篭がどれもかなり大きく、何とも壮観な風景です。

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この上野東照宮には何回か参拝に来たことがあったのですが、境内を囲う柵の向こう側の木々の間からチラチラと見える五重塔を、今まで間近で見学したことが一度もありませんでした。

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見学者が立ち入れない境内の敷地にでも建っているのだろう…と、これまで勝手に思い込んでいたのですが、柵のあたりを歩いていたところ、五重塔は寛永寺に隣接する上野動物園が管理していて、入場料を払って動物園に入れば五重塔を近くで見学できる、といった内容の看板が掛かっていました。恥ずかしながら、まったく全く不覚でした。とりもなおさず、上野動物園の入場ゲートに直行したわけですが、ここから先は長くなりますので、続きは次回ということで…。

(続く)

日本人の春の風物詩といえば「お花見」ですね。
今年は例年より桜の開花時期がかなり早く、お花見のタイミングを逸してしまった方も多いかと思いますが、満開となる少し前の3月後半、東京文京区にある小石川後楽園に足を運び、日本庭園と桜の風景を鑑賞してきました。小石川後楽園へは十数年ぶりの訪問で、こちらでお花見をするのは初めての体験となります。

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小石川後楽園(園内マップ)

上記のサイトでも詳しい来歴が紹介されていますが、この庭園は江戸時代の初期、水戸徳川家の祖である
徳川頼房(よりふさ)が江戸の上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の徳川光圀の代に完成したものです。当時、日本に亡命していた明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を登用した光圀は、彼の意見を取り入れて中国趣味を反映した庭園を造り上げたそうです。ちなみに「後楽園」という庭園の名称も、朱舜水の進言によるものだそうです。

朱舜水…。日本史上ではかなりマイナーな人物ですが、私にとってはある事をきっかけに知ることとなった、思い出に残る人物です。

20年以上前の大学時代のこと、歴史好きな親友に連れられて茨城県を旅行し、水戸徳川家に由来のある名所、常陸太田にある西山荘や、水戸にある偕楽園、弘道館などを色々と見学しました。そんな旅の途中、友人の案内で入った中華料理屋さんで「水戸藩ラーメン」なるものを初めて食べました。その際に友人から、「光圀に招かれていた学者の朱舜水が中華麺=ラーメンを紹介し、日本で初めてそのラーメンを食べたのが光圀だった」と教えてもらいました。

「水戸藩ラーメン」は、そのレシピに基づいて再現されたラーメンで、スープはアッサリ、ちぢれ麺とは違う独特な麺で、クコの実が乗った、確かに普通のラーメンとは微妙に異なる、初体験のラーメンでした。そんなきっかけもあって、朱舜水という人物の名前を知ることとなりました。水戸藩ラーメンについては、以下のサイトで詳しく紹介されています。

水戸藩ら~めん(水戸観光協会)
ちなみに私と友人が入ったお店は「鈴龍」さんです。

おっと…前段がグルメレポートになってしまいました。ここからが本題、当日の様子を紹介しましょう。
入口を過ぎると早速、正面に桜の樹が見えてきます。こちらはまだ五~六分咲きといった感じでした。庭園の遠方の樹々の上には、東京ドームの巨大な白い屋根が見えます。

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少し離れた場所には、園内で一番大きいと枝垂桜の巨木があり、こちらはほぼ満開に近い状態でした。見事な枝振りに圧倒されました…。

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園内は桜以外にも見所が満載です。園内の中央にある大泉水という池をグルリと回遊する形で、日本や中国の名所を見立てた鑑賞ポイントが数多く点在します。当日は園内の見所をひと通り見て廻りましたが、ここでは代表的なスポットをいくつか挙げておきます。

桜の巨木の横にある池と、そこに掛かる小さな橋。こちらの2つは、京都嵐山の下を流れる「大堰川(おおいがわ)」と、そこに掛かる名所「渡月橋」を見立てたものです。

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「渡月橋」を挟んだ反対側の池には、中国の名勝地を模した「西湖の堤」があります。

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小高い丘の上には、かつて京都清水寺を模した観音堂(清水観音堂)がありましたが、関東大震災で焼失したそうです。

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緑の中にある、朱塗りの美しい太鼓橋、京都東福寺の「通天橋」を見立てたものですね。

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園内でも特に有名な見所の一つ「円月橋」です。朱舜水の設計と指導により造られたそうです。のちに徳川吉宗が、江戸城内の庭に同じ橋を模して造ろうとしたものの結局、完成できなかったそうです。

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園内の中央を占める広大な池(大泉水)と、そこに浮かぶ蓬莱島(ほうらいじま)。島は亀の形をしていて、島の先端にある大きな黒い鏡石は庭師・徳大寺佐兵衛にちなんで「徳大寺石」と呼ばれます。

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かつて使用されていた小石川後楽園の正門です。東京ドームのすぐ横に位置する立派な門ですが、現在は使用されておらず閉鎖中です。

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ぐるりと園内を一周巡って再度、最初に見学した枝垂桜の周囲の様子をくまなく眺めると、かなり控え目気味に、少々変わった形をした石が2か所、置かれているのに気づきます。通常、園内の見所には必ず来歴を紹介した案内板が立っているのですが、これらの石には「陰石」「陽石」という名前のみが表示された小さな案内板しかなく、見過ごしてしまう人がほとんどです。

実は、陰石が女性器陽石が男性器の形を象徴しているらしく、写真を見てもらえば分かりますが(上が陰石、下が陽石)、確かにそのような形をしているのが分かります。かつて光圀は、その類の像を取り締まり、製造者や所持者を厳しく処罰したそうで、何故にそうした石像が庭園内、しかも入口付近に置かれているのか、理由がはっきりしないそうです。何とも不思議な話しですね…。

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庭園の鑑賞の様子は以上の通りですが、実のところ、お花見を楽しむ以外にもう1つ、大きな目的があって今回の訪問となりました。1月の記事で紹介した浜離宮庭園の時と同様、サイキックの小林世征さんが、この小石川後楽園のとある場所(2か所)にパワースポットが存在している、という記事が2010年の「ムー」で掲載されていました。実際にその場所にたたずんでみると、確かに足元からピリピリとした感覚がかすかに伝わってきました。

記事で紹介されていた具体的な場所をここで明示するのは控えますが、その場所で撮影した写真を挙げておきますので、関心のある方は実際に足を運んで探してみて下さい。かなり分かりにくいですが、あしからず…。

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小石川後楽園は、朱舜水という当時の最先端の知識・技術力を持ったプロデューサーなくしては完成し得なかった庭園であり、そのため、他の大名庭園には見られない数多くの特徴が残されていることを知りました。
晴天の下でお花見を楽しみつつ今回、20数年前に食したラーメンの思い出とともに、朱舜水という人物の凄さを改めて感じた次第です。


先日、BS朝日で「古九谷の謎 ~神秘の色絵磁器 そのルーツは?」という番組が放送されていました。陶磁器などの焼物についてはこれまで、様々な美術館や博物館等で目にする機会があったのですが、日本各地の焼物の特徴、それらが造られた歴史的な背景については未だ不勉強な部分が多いので、こうしたテレビ番号が放送される時には、録画して内容を確認するようにしています。古九谷焼に関して私が知っていたのは、石川県で生産された焼物(磁器)であること、日本各地の焼物の中でもトップクラスの高級な焼物であること、緑色などの色彩で塗り込められた焼物であること、といった程度でした。

この番組では、「開運なんでも鑑定団」の中島誠之助さんをナビゲーター役に、古九谷焼の特徴や歴史などが様々な面から紹介されていました。古九谷の中にも「五色手」や「青手」といった色絵付けの違いがあること、焼物が造られた当時の歴史的な背景(九谷の地を治めた加賀藩、加賀大聖寺藩との関係)、古九谷焼が江戸時代の前期(1600年代の後半)の約半世紀の間に造られ、その後消滅してしまったとことなど、様々な事実を知ることができました。

その中でも大きなポイントとなるのが、古九谷焼の元々のルーツは佐賀(鍋島藩)の伊万里焼にあり、伊万里の製陶技術や素地(きじ=色絵を付ける前の無地の焼物)を取り入れることで古九谷焼が確立した、という点です。実はその背景には、加賀大聖寺藩の藩主に嫁いだ女性が佐賀藩鍋島家の出身で、古九谷が造られた当時、加賀と佐賀は姻戚関係にあったそうなのです。古九谷焼と伊万里焼に、そうした歴史的な繋がりがあったとは、全く知りませんでした。

そんな中、渋谷の戸栗美術館で「古九谷名品展」が開催中で、学芸員による展示解説日があると聞きつけ先日、美術館を訪問してきました。

戸栗美術館

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渋谷駅から歩いて10分程度の近さにも関わらず、渋谷の喧騒が信じられないくらい閑静な住宅街の中にあり、落ち着いた環境で作品を鑑賞できる美術館です。当日は私も含めて20人くらいの見学者が集まり、新人の女性学芸員の方が約1時間にわたって作品を解説してくれました。色絵付けに関わる話しやデザインの特徴など、とても分かりやすい説明でした。特に、微妙な色合いに関する説明(例えば、磁器に黒色を塗ると色落ちし易いので、黒色の上に緑色を重ね塗りしてカバーする等)などは、テレビの画面や印刷物では判別できない、実物を目にしなければ分からないことも色々あって、とても興味深かったです。

しかし、今回の「古九谷名品展」で展示されている古九谷作品の全てが“伊万里(古九谷様式) ”と表示されていました。古九谷といえば石川で造られたモノなのに、と素人目には思ってしまう訳ですが、そこには何やら複雑な事情が絡んでいるようで…。

先ほども少し触れましたが、古九谷焼の元々の産地はどこなのかを巡って、石川県の九谷か、佐賀県の有田かで争われてきた経緯があり、「陶磁史邪馬台国論争」とも呼ばれているそうです。現在、全国の美術館では、“伊万里(古九谷様式)”の表記が一般化しているようです。これに反論する形で、以下の石川県側のサイト上で、有識者の方々がさまざまな見解を示しています。

加賀の九谷 ―古九谷の真実に迫る―

今回訪れた戸栗美術館は、旧鍋島藩の屋敷跡に造られた美術館で、主な収蔵品が伊万里・鍋島などの肥前磁器を中心としていることもあって、古九谷焼を“伊万里(古九谷様式)”としているのは、当然といえば当然と言えるでしょう。一方の石川県では、古九谷焼は石川九谷が産地という姿勢を貫いていて、そうしたアピールもあって、今回放送されたテレビ番組が製作された様子が伺えます。

私自身はどちらの肩を持つわけでもありませんが、当事者の方々としてはやはり譲れない部分があるのでしょう。かつて、姻戚関係を結んで良好な関係にあった前田家や鍋島家の藩主が生きていたら、この論争をどんな気持ちで見守ることでしょうか…。

ちなみに、石川の古九谷の窯が約50年で消滅してしまった原因ですが、未だ明確な理由が判明していないそうです。今回の番組では、製陶に関わった陶工の多くが九州から逃れてきた隠れキリシタン(=島原の乱が発生する前に逃れてきた人たち)で、彼らの存在が中央幕府に発覚する前に、加賀藩がその事実を隠蔽するため窯を廃止した、という説が紹介されていました。同時に、古九谷焼の作品の中に、キリスト教にまつわる事物を皿絵のデザイン中に忍ばせたものがある、とも紹介されていました。ネットで調べたところ、今回の番組で取り上げられていた皿絵について、詳しく解説したサイトがありましたので、紹介しておきます。

古九谷キリシタン 隠し絵(ダブルイメージ)

先日の記事で書いた茶の湯の大成者、千利休や古田織部がキリスト教徒だったというエピソードと、はからずもシンクロしてしまいました、不思議な話しです…。
明治学院大を後にし、最後に向かったのは畠山記念館です。こちらの美術館も名前だけは知っていたのですが、主に茶道具等を中心に企画展示を行う美術館で、あまり馴染のない分野ということもあって、今まで足を運ぶ機会がありませんでした。ただ、先日の記事でも書いたように、少し前から「へうげもの」の影響で、茶の湯や茶道家の歴史に興味が出てくるようになったこともあって今回、初めての訪問となりました。

畠山記念館

白金台の入り組んだ住宅街の路地を抜けると、立派な門構えの畠山記念館が見えてきます。今回は「秋季展 利休と織部」の企画展示が開催されていました。

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大きな門には畠山氏の家紋(二つ引両)。かつての大名屋敷跡の雰囲気がいまだに色濃く残っていて、何とも厳かな気持ちになります。門を抜けると、広い日本庭園があり、先ほど見てきた八芳園にも劣らないくらい、美しい紅葉の景色が広がっていました。

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記念館の創設者、畠山一清氏は、ポンプで有名な荏原製作所の創業者だそうで、実業の傍ら、能楽や茶の湯をたしなみ、収集した数多くの作品や茶室を備えた記念館を、ここ白金台に設立されたとのこと。かつては、現在の美術館の敷地横に、広大な庭を有した般若苑(はんにゃえん)と呼ばれる私邸(のちに高級料亭)があり、白金台の街を象徴する存在だったそうです。

庭園をひと巡りして記念館へ。さほど大きな建物ではありませんが、畠山翁の意向を反映した設計だそうで、庭園の風景に溶け込んだ、落ち着いた雰囲気の外観です。階段を上がって2Fに、展示スペースがあります。

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展示作品については、上記サイトに情報が載っています。茶碗の良し悪しを語るほどの知識は身に付いていませんが、それでも、古田織部の用いた茶碗や焼物の実物を観ると、他のどれよりも形状が独特で、師匠の利休によって大成された茶の湯の形式美を、独自の感性でアレンジしようとした織部の審美眼が、作品から伝わってきました。

展示品の中でも特に気になったのが「割高台茶碗・織部所持」という茶碗です。“高台”とは茶碗の下の台座の部分で、これに割れ目が4か所入って、茶碗を引っくり返すと台座が十字のような形をしているので、「割高台」という呼び名が付いています。普通の茶碗には見られない特殊な形で、何とも“造形の妙”を感じました。さらに、この作品に強く興味が惹かれた理由がもうひとつ。展示作品の解説文によると、この高台の形状がキリスト教の十字架を彷彿とさせるものから、これを所持していた古田織部がキリシタンだったかもしれない、という「古田織部キリシタン説」です。

戦国時代、利休から茶の湯の教えを受けた七高弟の多くがキリシタン大名で、織部の妻が高山右近(キリシタン大名の代表的存在)の妹だったことからも、織部自身がキリスト教に関わっていたという説は、全くのデタラメとは思えません。

そういえば以前、毎月愛読している雑誌『ムー』に、「利休の大成した茶の湯は、キリスト教のミサを象徴したものである」という記事を読んだことがありました。ネットで改めて調べたところ、そのあたりの内容を説明しているサイトがありましたので、紹介しておきます。

キリストの福音が秘められた茶道(牛込キリスト教会)

「侘び寂び」というと、西洋人には理解しがたい極めて日本的な感覚のように思われますが、もしかすると茶の湯の大成者・利休は、西洋人の信仰の拠り所であるキリスト教的な思想を背景に、「侘び」の感覚を極めていった可能性があります。これは、私が常々関心を持っている謎学の分野にも共通して言えることです。私たち日本人が常識だと思っている古来からの歴史・文化・習慣の裏に、実は隠された真実がある、ということです。

茶の湯の文化は、まだまだ奥が深そうです。興味が尽きません。