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先月(10/21)のブログでご紹介した小灘一紀さんの東京での展覧会、日本橋の高島屋で開催されるとの情報を聞きつけ、先日、「古事記編纂1300年記念 小灘一紀展」に行ってきました。高島屋内の画廊での個展ということで、少々、緊張しながら入場しました…。


小作から大作まで、30点ほどの作品が展示してありましたが、やはり目を引いたのは古事記の神話を題材とした作品の数々です。イザナギとイザナミの国生みの場面、有名な天岩戸開きの場面など、古事記を読んだり勉強した人であれば、どれも馴染みのあるシーンや神々が描かれています。先日のテレビ番組で放送されていた作品もいくつか展示されてましたが、やはり実物の絵が持つ迫力は違います。
今回は画廊での個展でしたので、(当然ながら)全ての作品に価格が表示されていました。普段、画廊に足を運ぶような機会がほとんどないため、どうしても作品のお値段に目が向かってしまいます。やはり、作品相応のお値段で、私にはとても手が出るような金額ではありませんでした…。
当日、会場には小灘先生ご本人と奥様がいらっしゃいました。先生は日展の評議員ということもあって、その方面の関係者の方が何人かお見えになっていて、今後の展覧会の話しや海外出張に行かれる話しなど、会話の内容が自然と耳に入ってきました。一般の美術館とは違って、やはりこうした画廊は、自分とは全然違う世界の人たちが交流する場なのだな…、と漠然と思いながら作品を見ていると、いきなり小灘先生が私に声をかけてくれました。
この個展に来た経緯(山陰旅行に行く前に偶然見たテレビ番組で先生の作品を知ったこと)や、先日の山陰旅行で多く神社をお参りしたこと、先生の故郷の境港を訪問したことなどを話したところ、おもむろに会場の中央に置かれた立派なソファに案内され、恐縮にも、お茶まで出していただくことになりました。
たまたま、来訪者の方がそれほどいなかったタイミングもあって、その後、先生ご本人、それから奥様と、20分ほどお話しをする機会に恵まれました。作品の横に展示されている解説文(古事記のエピソード等)は、奥様が全て書かれているそうで、そうした関係もあって奥様は日本の神話や歴史について造詣が深く、色々と興味深いお話しをしてくれました。出雲大社の宮司を担当する家系(千家家と北島家の関係)を巡る話し、ジョン・レノンと神道とのつながり、世界各地の神話に見られる共通性、「秀真伝(ホツマツタエ)」と古代文字ホツマ文字の特徴、大神(オオミワ)神社の大田田根子(オオタタネコ)の血筋を引く方が大阪にいるらしい、等々、短い時間に次から次へと様々な話題が出てきて、本当に興味が尽きませんでした。
帰り際に先生から、小作品集と絵ハガキのセットを頂きました。思いがけないプレゼントでした。

また、先生が絵画を描くに当っての信念や信条を箇条書きにまとめた「私の神話絵画観について」というプリントを、一緒にいただきました。先生は現在、大阪芸術大学客員教授ですので、大学の授業でも、こうした理念を学生たちに伝えているのだと思います。この絵画観の中には、示唆に富んだ言葉やメッセージが数多くあり、絵画作品以上に胸を打たれるものがありました。そのうちのいくつかを、皆さんにも紹介したいと思います。
「私は現代流行の自己中心の絵画表現より、中世絵画のように何かの価値のために生きる美術表現に惹かれる。古代・中世絵画の芸術家は神に近づくために芸術作品を作った。署名なしの無名の美術家達の作品である。ロボットのような楽をする機械を用いることなく、自らの手と頭で表現してきたことに感動する。」
「教育によって個性・創造性ある人間を育てることはできない。民族の持つ文化・歴史を学び民族の魂を身につけることで個性的表現は可能となる。教育はまず、民族の歴史を学習することから始まる。美術教育も同じだ。」
「20世紀は西洋美術の流れに沿って、日本美術界は活動してきたが、それは限界にきている。日本には日本の思想があり、日本の優れた美術文化を見直す時期に来ている。」
今回は、先生ご夫婦とお話しをする機会に恵まれ、本当に幸運でした。来年(2013年)、式年遷宮に合わせて伊勢神宮の近くで先生の個展が開かれる予定だそうです。機会があれば、また改めて先生の作品を観に行けたらな…と思っています。


小作から大作まで、30点ほどの作品が展示してありましたが、やはり目を引いたのは古事記の神話を題材とした作品の数々です。イザナギとイザナミの国生みの場面、有名な天岩戸開きの場面など、古事記を読んだり勉強した人であれば、どれも馴染みのあるシーンや神々が描かれています。先日のテレビ番組で放送されていた作品もいくつか展示されてましたが、やはり実物の絵が持つ迫力は違います。
今回は画廊での個展でしたので、(当然ながら)全ての作品に価格が表示されていました。普段、画廊に足を運ぶような機会がほとんどないため、どうしても作品のお値段に目が向かってしまいます。やはり、作品相応のお値段で、私にはとても手が出るような金額ではありませんでした…。
当日、会場には小灘先生ご本人と奥様がいらっしゃいました。先生は日展の評議員ということもあって、その方面の関係者の方が何人かお見えになっていて、今後の展覧会の話しや海外出張に行かれる話しなど、会話の内容が自然と耳に入ってきました。一般の美術館とは違って、やはりこうした画廊は、自分とは全然違う世界の人たちが交流する場なのだな…、と漠然と思いながら作品を見ていると、いきなり小灘先生が私に声をかけてくれました。
この個展に来た経緯(山陰旅行に行く前に偶然見たテレビ番組で先生の作品を知ったこと)や、先日の山陰旅行で多く神社をお参りしたこと、先生の故郷の境港を訪問したことなどを話したところ、おもむろに会場の中央に置かれた立派なソファに案内され、恐縮にも、お茶まで出していただくことになりました。
たまたま、来訪者の方がそれほどいなかったタイミングもあって、その後、先生ご本人、それから奥様と、20分ほどお話しをする機会に恵まれました。作品の横に展示されている解説文(古事記のエピソード等)は、奥様が全て書かれているそうで、そうした関係もあって奥様は日本の神話や歴史について造詣が深く、色々と興味深いお話しをしてくれました。出雲大社の宮司を担当する家系(千家家と北島家の関係)を巡る話し、ジョン・レノンと神道とのつながり、世界各地の神話に見られる共通性、「秀真伝(ホツマツタエ)」と古代文字ホツマ文字の特徴、大神(オオミワ)神社の大田田根子(オオタタネコ)の血筋を引く方が大阪にいるらしい、等々、短い時間に次から次へと様々な話題が出てきて、本当に興味が尽きませんでした。
帰り際に先生から、小作品集と絵ハガキのセットを頂きました。思いがけないプレゼントでした。

また、先生が絵画を描くに当っての信念や信条を箇条書きにまとめた「私の神話絵画観について」というプリントを、一緒にいただきました。先生は現在、大阪芸術大学客員教授ですので、大学の授業でも、こうした理念を学生たちに伝えているのだと思います。この絵画観の中には、示唆に富んだ言葉やメッセージが数多くあり、絵画作品以上に胸を打たれるものがありました。そのうちのいくつかを、皆さんにも紹介したいと思います。
「私は現代流行の自己中心の絵画表現より、中世絵画のように何かの価値のために生きる美術表現に惹かれる。古代・中世絵画の芸術家は神に近づくために芸術作品を作った。署名なしの無名の美術家達の作品である。ロボットのような楽をする機械を用いることなく、自らの手と頭で表現してきたことに感動する。」
「教育によって個性・創造性ある人間を育てることはできない。民族の持つ文化・歴史を学び民族の魂を身につけることで個性的表現は可能となる。教育はまず、民族の歴史を学習することから始まる。美術教育も同じだ。」
「20世紀は西洋美術の流れに沿って、日本美術界は活動してきたが、それは限界にきている。日本には日本の思想があり、日本の優れた美術文化を見直す時期に来ている。」
今回は、先生ご夫婦とお話しをする機会に恵まれ、本当に幸運でした。来年(2013年)、式年遷宮に合わせて伊勢神宮の近くで先生の個展が開かれる予定だそうです。機会があれば、また改めて先生の作品を観に行けたらな…と思っています。
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今回の山陰旅行では、印象に残る名所や土地を数多く訪れることができ、自身の見聞を広める意味でも有意義なものでした。この旅の見聞録を締めくくるに当たって何を書こうか、と考えたのですが、極私的な体験談をお話ししようと思います。これまでの記事とは、かなり毛色が違いますのでご容赦を…。
シンクロニシティという言葉はご存知でしょうか?
「意味のある偶然の一致」「共時性」と言われます。因果関係のない複数の事象が、同時に(連続して)起きる現象です。ある人のことをふと思い出したら、その人からすぐに電話が掛かってきた、というのはシンクロニシティの典型ですね。
“謎学”に関心のある私としては、シンクロニシティの発生について興味があります。「共時性」という言葉自体、心理学者カール・G・ユングがつくった言葉(synchronicity)ですので、心理学の範疇に入るテーマといった方が的確かもしれません。
私自身、何か霊感のような特殊な力を持っている訳ではありませんが、シンクロニシティに関しては誰もが身をもって体感できる現象でもあり、以前から関連する書籍を読んでみたり、自分が体験した事例をメモしていたりしました。
旅先では何が起こるか分かりません。今回の旅行中、はからずもシンクロニシティが次々と頻発したので、ブログに書き留めておこうと思った次第です。どうかお付き合いください。
その①
旅行2日目、JR淀江駅から「伯耆の丘公園」まで、一面に田園が広がる風景の中、ひたすら真っ直ぐな道を歩いている最中、何気なく前日に訪れた東光園の温泉のことを思い出しました。庭園にある露天風呂も風情があって良かったのですが、何といっても印象に残ったのが大浴場で、お湯の良さもさることながら、その壁面が朱色に塗られ、見たこともない巨木が梁に使われていて、その奇抜さ・スケールの大きさに驚かされました。
東光園 温泉
入浴後、ホテル館内を見学した際、ホテルの歴史や資料・美術作品を展示しているコーナーがあり、そこに大浴場の模型が展示してありました。

そこには解説があり「設計は世界を代表する彫刻家である流政之(ながれまさゆき)氏の手によるもので、米国産の太い松とインド砂岩の壁など、彫刻家としての大胆な発想を取り入れた、大変おもしろい設計となっております。」と書いてありました。確かに、芸術家のようなセンスの持ち主でなければ、あのような大胆なデザインは思いつかないな…と感心しきりでした。
そんな前日に入浴した大浴場のことを思い出しながら、公園に向かう道を歩いていた時、彫刻家の流政之のことを色々と思い出してきました。数年前に偶然、テレビの番組で流政之のことを知ったのですが、香川県の庵治町を活動拠点として、そこにあるスタジオでの製作風景が紹介されていました。スタジオと言っても、そこは見まごうばかりの美術館のようなで、これは是非、観に行きたい!と思ったのですが、今もそこで作品を製作されているので非公開とのことでした。
流政之
庵治といえば「庵治石」、彫刻の材料として良質な石質として有名です。庵治に因む彫刻家といえば、もしかすると流政之よりも、イサムノグチの方が有名かもしれません。こちらも世界的な彫刻家ですね。私の妻の母親が香川県の出身ということもあり、結婚後、法事などで香川に行く機会が増えました。そんなこともあって2年前の夏、「イサムノグチ庭園美術館」を妻と義母の三人で観に行きました。木々の緑の中に石造りの彫刻作品が映え、夏の思い出の1ページとなった記憶があります。
イサムノグチ庭園美術館
そんなこんなで、流政之やイサムノグチの過去の思い出を振り返りながらしばらく歩いていると、道案内の看板が見え、公園に向かう曲がり角にさしかかった時、そこに何やら立派な石碑が立っていました。碑文を見てみると、この辺り(淀江)の土地田畑の開発を記念する石碑のようでした。


特に歴史的な遺物でもなかったなので、早く公園に向かおうと思ったその瞬間、その石碑の横に立つ一本の黒色の石柱に目が止まりました。そこには「碑石 四国香川県産 庵治石」と刻まれていました。全く予期しなかった遭遇に、しばし呆然としてしまいました。

その②
当日の夕方、足立美術館を見学し終えて、美術館のすぐそばにある温泉旅館「さぎの湯荘」に入りました。部屋に通されると、予想以上に広くて綺麗な和室が用意されていました。窓から見える日本庭園は手入れが行き届いていて、先ほどまでいた美術館の庭園の続きを体験しているようでした。



部屋の中の様子を見ていたところ、テレビの横に本立てがあり、暇つぶし用に何冊かの本が置かれていました。

どんな類の本が置かれているかで、その旅館やホテルのセンスが何となく分かります。「MCエッシャー」「京町屋拝見」「白洲次郎と白洲正子」「邪馬台国へ詣でる道」…どの本も、私の興味のある分野ですが、一冊、気になる本がありました。「図説 日本の昔話」です。もしや…と思いページをめくって行くとやはり載っていました、「酒呑童子」の物語が…。


先日のブログで、渋谷で偶然に立ち寄った金王八幡宮で、たまたま「酒呑童子」の絵馬を見つけたエピソードを紹介したかと思います。それから数日もたたないうちに、旅先の宿の部屋で、「酒呑童子」の物語に再び遭遇するとは…。旅館の部屋数は20近くありますが、すべての部屋に同じ本が揃えられているとはとても思えません。この宿、この部屋に泊まることは、必然だったのかもしれません。
その③
旅行最終日の朝、起きてすぐに部屋のテレビをつけ、身支度をした後、前日夜にホテルの近くのコンビニで買った菓子パンを食べました。買った時には意識して商品名を見ていなかったのですが、袋を見ると「バームクーヘン風パン」とありました。

何だか変なネーミングだな…と思っていると、どうも言いにくい、発音しにくい名前のような気がしました。恥ずかしい話しですが、独り言のように早口言葉で「バームクーヘンフーパン、バームクーヘンフーパン、バームクーヘンフーパン」と3回繰り返し言ってみました。やはり最後の方になると上手く言えませんでした。
そんな他愛もないことをしていると、多分1分も経たないうちに、テレビの画面に現れた女性がいきなり早口言葉を言い出しました。朝起きてテレビをつけた時には、全くチャンネルのことは気にしていなかったのですが、それはNHK・Eテレの子供向け番組「にほんごであそぼ」の1コーナーで、何やら古めかしい日本語のくだりを早口言葉で3回、発音するというものでした。(後日、改めてその番組を自宅で見たところ、そのコーナーは「街角早口瓦版」という事が分かりました)。
……………………………………………………
以上、香川県の庵治、昔話の酒呑童子、早口言葉、どのエピソードも他人から見ればただの偶然、他愛のない話しばかりかと思いますが、こうしたシンクロニシティの発生は、その時の自分自身の意識や考え方が正しい流れに乗っている(“フロー”に乗っている)という状況を身をもって実感できる瞬間といえます。
シンクロニシティーは、心に余裕がある時、リラックスしている時、頭が空っぽでボーッとしている時等に起こりやすい現象です。それに「ひらめき」「直感」が、とても大事なファクターとなります。旅行の初日から最終日まで毎日が楽しく、ワクワクし通しでしたので、こうした現象が起こりやすい状況だったのかもしれません。今回の旅行も、自分の意志だけではなく、色々な導きがあってこそ彼の地を訪れる機会に恵まれ、多くの事を知ったり感じたりすることができた…、そんな気がします。
以上、山陰旅行見聞録でした。
シンクロニシティという言葉はご存知でしょうか?
「意味のある偶然の一致」「共時性」と言われます。因果関係のない複数の事象が、同時に(連続して)起きる現象です。ある人のことをふと思い出したら、その人からすぐに電話が掛かってきた、というのはシンクロニシティの典型ですね。
“謎学”に関心のある私としては、シンクロニシティの発生について興味があります。「共時性」という言葉自体、心理学者カール・G・ユングがつくった言葉(synchronicity)ですので、心理学の範疇に入るテーマといった方が的確かもしれません。
私自身、何か霊感のような特殊な力を持っている訳ではありませんが、シンクロニシティに関しては誰もが身をもって体感できる現象でもあり、以前から関連する書籍を読んでみたり、自分が体験した事例をメモしていたりしました。
旅先では何が起こるか分かりません。今回の旅行中、はからずもシンクロニシティが次々と頻発したので、ブログに書き留めておこうと思った次第です。どうかお付き合いください。
その①
旅行2日目、JR淀江駅から「伯耆の丘公園」まで、一面に田園が広がる風景の中、ひたすら真っ直ぐな道を歩いている最中、何気なく前日に訪れた東光園の温泉のことを思い出しました。庭園にある露天風呂も風情があって良かったのですが、何といっても印象に残ったのが大浴場で、お湯の良さもさることながら、その壁面が朱色に塗られ、見たこともない巨木が梁に使われていて、その奇抜さ・スケールの大きさに驚かされました。
東光園 温泉
入浴後、ホテル館内を見学した際、ホテルの歴史や資料・美術作品を展示しているコーナーがあり、そこに大浴場の模型が展示してありました。

そこには解説があり「設計は世界を代表する彫刻家である流政之(ながれまさゆき)氏の手によるもので、米国産の太い松とインド砂岩の壁など、彫刻家としての大胆な発想を取り入れた、大変おもしろい設計となっております。」と書いてありました。確かに、芸術家のようなセンスの持ち主でなければ、あのような大胆なデザインは思いつかないな…と感心しきりでした。
そんな前日に入浴した大浴場のことを思い出しながら、公園に向かう道を歩いていた時、彫刻家の流政之のことを色々と思い出してきました。数年前に偶然、テレビの番組で流政之のことを知ったのですが、香川県の庵治町を活動拠点として、そこにあるスタジオでの製作風景が紹介されていました。スタジオと言っても、そこは見まごうばかりの美術館のようなで、これは是非、観に行きたい!と思ったのですが、今もそこで作品を製作されているので非公開とのことでした。
流政之
庵治といえば「庵治石」、彫刻の材料として良質な石質として有名です。庵治に因む彫刻家といえば、もしかすると流政之よりも、イサムノグチの方が有名かもしれません。こちらも世界的な彫刻家ですね。私の妻の母親が香川県の出身ということもあり、結婚後、法事などで香川に行く機会が増えました。そんなこともあって2年前の夏、「イサムノグチ庭園美術館」を妻と義母の三人で観に行きました。木々の緑の中に石造りの彫刻作品が映え、夏の思い出の1ページとなった記憶があります。
イサムノグチ庭園美術館
そんなこんなで、流政之やイサムノグチの過去の思い出を振り返りながらしばらく歩いていると、道案内の看板が見え、公園に向かう曲がり角にさしかかった時、そこに何やら立派な石碑が立っていました。碑文を見てみると、この辺り(淀江)の土地田畑の開発を記念する石碑のようでした。


特に歴史的な遺物でもなかったなので、早く公園に向かおうと思ったその瞬間、その石碑の横に立つ一本の黒色の石柱に目が止まりました。そこには「碑石 四国香川県産 庵治石」と刻まれていました。全く予期しなかった遭遇に、しばし呆然としてしまいました。

その②
当日の夕方、足立美術館を見学し終えて、美術館のすぐそばにある温泉旅館「さぎの湯荘」に入りました。部屋に通されると、予想以上に広くて綺麗な和室が用意されていました。窓から見える日本庭園は手入れが行き届いていて、先ほどまでいた美術館の庭園の続きを体験しているようでした。



部屋の中の様子を見ていたところ、テレビの横に本立てがあり、暇つぶし用に何冊かの本が置かれていました。

どんな類の本が置かれているかで、その旅館やホテルのセンスが何となく分かります。「MCエッシャー」「京町屋拝見」「白洲次郎と白洲正子」「邪馬台国へ詣でる道」…どの本も、私の興味のある分野ですが、一冊、気になる本がありました。「図説 日本の昔話」です。もしや…と思いページをめくって行くとやはり載っていました、「酒呑童子」の物語が…。


先日のブログで、渋谷で偶然に立ち寄った金王八幡宮で、たまたま「酒呑童子」の絵馬を見つけたエピソードを紹介したかと思います。それから数日もたたないうちに、旅先の宿の部屋で、「酒呑童子」の物語に再び遭遇するとは…。旅館の部屋数は20近くありますが、すべての部屋に同じ本が揃えられているとはとても思えません。この宿、この部屋に泊まることは、必然だったのかもしれません。
その③
旅行最終日の朝、起きてすぐに部屋のテレビをつけ、身支度をした後、前日夜にホテルの近くのコンビニで買った菓子パンを食べました。買った時には意識して商品名を見ていなかったのですが、袋を見ると「バームクーヘン風パン」とありました。

何だか変なネーミングだな…と思っていると、どうも言いにくい、発音しにくい名前のような気がしました。恥ずかしい話しですが、独り言のように早口言葉で「バームクーヘンフーパン、バームクーヘンフーパン、バームクーヘンフーパン」と3回繰り返し言ってみました。やはり最後の方になると上手く言えませんでした。
そんな他愛もないことをしていると、多分1分も経たないうちに、テレビの画面に現れた女性がいきなり早口言葉を言い出しました。朝起きてテレビをつけた時には、全くチャンネルのことは気にしていなかったのですが、それはNHK・Eテレの子供向け番組「にほんごであそぼ」の1コーナーで、何やら古めかしい日本語のくだりを早口言葉で3回、発音するというものでした。(後日、改めてその番組を自宅で見たところ、そのコーナーは「街角早口瓦版」という事が分かりました)。
……………………………………………………
以上、香川県の庵治、昔話の酒呑童子、早口言葉、どのエピソードも他人から見ればただの偶然、他愛のない話しばかりかと思いますが、こうしたシンクロニシティの発生は、その時の自分自身の意識や考え方が正しい流れに乗っている(“フロー”に乗っている)という状況を身をもって実感できる瞬間といえます。
シンクロニシティーは、心に余裕がある時、リラックスしている時、頭が空っぽでボーッとしている時等に起こりやすい現象です。それに「ひらめき」「直感」が、とても大事なファクターとなります。旅行の初日から最終日まで毎日が楽しく、ワクワクし通しでしたので、こうした現象が起こりやすい状況だったのかもしれません。今回の旅行も、自分の意志だけではなく、色々な導きがあってこそ彼の地を訪れる機会に恵まれ、多くの事を知ったり感じたりすることができた…、そんな気がします。
以上、山陰旅行見聞録でした。
まだまだ続きます、山陰旅行見聞記。今回は、旅行初日に行った境港の様子です。
昨年「ゲゲゲの女房」が大ヒットしたこともあって、水木しげる先生の故郷、鳥取県の境港が相当に盛り上がっているらしい、という話しを聞いていました。1年近くたち、ブームもそれなりに落ち着いているのかな…と思いつつ訪れた境港でしたが、当日は日曜日だったこともあってか、かなりの賑わいでビックリしました。
米子空港に降り立ち、電車に乗って境港駅に至るまで、もうすでに鬼太郎ワールドが全開でした。



まず、水木しげる記念館から。こちらは今年3月にリニューアルオープンしたそうです。入口で、鬼太郎と水木先生がお出迎えしていました。
水木しげる記念館


館内を入ると、写真撮影フリーのスペースがあり、そこにゲゲゲの鬼太郎に登場するキャラクターの設定などがパネルで説明されていました。ちなみに、鬼太郎には、父親である目玉おやじの他にも、メリーという妻がいたり、雪姫という妹がいるそうです。


他にも、水木先生がこれまで描いてきた数多くの漫画の紹介が展示されていたのですが、その中で、思わず食い入るように見てしまった作品がありました。それは1968年に発表された「虹の国アガルタ」という作品です。

ネットで調べたところ、コレクターの間ではかなり人気のある作品らしく、あの「まんだらけ」でも作品が入荷されるとすぐに売れてしまうタイトルなのだそうです。物語の概要は…
「臨終の父から、ラマ教の極楽浄土である虹の国アガルタへの入国証を譲られた大学生の正一はチベットへ行く。しかし、探せどもアガルタへの入口は見つからない。ある日遺跡で拾った鏡を覗いてみると、映ったのは絶世の美女。「わたしはアガルタ」と美女は名乗る。以来、正一に幸運が続くが、鏡の中の美女では触れることもできず、徐々に鏡の女がうっとうしい存在となっていく。正一は鏡を川に捨て、女から逃げようとするが…。憂いのない伝説の都アガルタは何処に…。 」
シャンバラやアガルタに関する伝説や秘密については、サイエンスエンターテナーこと飛鳥昭雄さんの書籍を何冊も読んできたこともあって、大いに興味があるテーマです。地球内部に、私たちが知らないもう1つの世界(多次元存在としての別世界)がある、という話しです。にわかには信じられないかと思いますが、昔から“謎学”に興味のある私としては、放っておけないテーマです。普段、マンガに触れる機会はほとんどないのですが、この漫画だけは読んでみたくなりました。
(話しがかなり脱線してしまいましたが)、館内にはほかにも、水木先生のフィールドワークである世界各地の民族資料の収集品や、先生の漫画家人生にまつわる思い出の品々、妖怪の精巧な人形や、日本各地や世界の妖怪の紹介などてんこ盛りで、大人から小さい子供まで楽しめる内容でした。
そんな展示品の中、水木先生が結婚式のために用意した義手がさりげなく置いてあったのには、思わずグッ…ときてしまいました。昨年放送されていた「ゲゲゲの女房」、毎朝欠かさず見るほど熱心な視聴者ではなかったのですが、義手のエピソードは知っていました。ハンディキャップを物ともせず、自らのペン一本で成功した水木先生の凄さを、改めて感じました。
記念館を出てからも、街中が妖怪だらけです。記念館のすぐ横にあるお菓子屋さんでは、「妖菓 目玉おやじ」を買いました。見た目の派手さとは違い、上品な甘さの和菓子でした。




記念館と駅の間を結ぶ商店街(水木しげるロード)には、100体以上の妖怪のブロンズ像が数メートルおきに展示されていて、歩いていても全く飽きません。私も含めて観光客のほとんどが、お気に入りの像の前で写真を撮っていました。



神社をお参りせずにはいられない私としては、妖怪神社の存在も気になりました。


そういえば昨年、ゲゲゲブームの時に水木先生を特集したテレビ番組を見たのですが、その時にとても印象深かったのが、町おこしのため、境港の商店が鬼太郎など妖怪のキャラクターを商品やパッケージに使用する際、ノベルティを一切取らず自由に使って構わない、と水木先生が話していたシーンです。普通、アニメやマンガの原作者や製作会社は、こうしたキャラクターの使用権については厳しく運用するケースがほとんどかと思いますが、自分の利益は横に置いて、故郷の人たちのために一肌脱ぐという姿勢。さすがは御大(おんたい)、本当に懐の深さを感じます。
お店が自由に商売できると、色々なアイデアで商品やサービスが生まれ、それを目当てに多くのお客さんが各地から集まる、それがうまく循環してさらに街が盛り上がって行く、という理想的な町おこしの事例を見た気がします。(それに引きかえ、当日午後に訪れた米子は駅前の大型店だけが賑わい、街の中心部にある昔からの商店街が完全なシャッター通りと化していて、何とも寂しい気持ちになりました)。
水木しげるという偉大な漫画家を核にして、街に住む人もそこを訪れる観光客も元気になれる場所、境港。こんな街が全国の至るところにあれば日本はもっと元気な国になれるのに…そんな気がしました。
昨年「ゲゲゲの女房」が大ヒットしたこともあって、水木しげる先生の故郷、鳥取県の境港が相当に盛り上がっているらしい、という話しを聞いていました。1年近くたち、ブームもそれなりに落ち着いているのかな…と思いつつ訪れた境港でしたが、当日は日曜日だったこともあってか、かなりの賑わいでビックリしました。
米子空港に降り立ち、電車に乗って境港駅に至るまで、もうすでに鬼太郎ワールドが全開でした。



まず、水木しげる記念館から。こちらは今年3月にリニューアルオープンしたそうです。入口で、鬼太郎と水木先生がお出迎えしていました。
水木しげる記念館


館内を入ると、写真撮影フリーのスペースがあり、そこにゲゲゲの鬼太郎に登場するキャラクターの設定などがパネルで説明されていました。ちなみに、鬼太郎には、父親である目玉おやじの他にも、メリーという妻がいたり、雪姫という妹がいるそうです。


他にも、水木先生がこれまで描いてきた数多くの漫画の紹介が展示されていたのですが、その中で、思わず食い入るように見てしまった作品がありました。それは1968年に発表された「虹の国アガルタ」という作品です。

ネットで調べたところ、コレクターの間ではかなり人気のある作品らしく、あの「まんだらけ」でも作品が入荷されるとすぐに売れてしまうタイトルなのだそうです。物語の概要は…
「臨終の父から、ラマ教の極楽浄土である虹の国アガルタへの入国証を譲られた大学生の正一はチベットへ行く。しかし、探せどもアガルタへの入口は見つからない。ある日遺跡で拾った鏡を覗いてみると、映ったのは絶世の美女。「わたしはアガルタ」と美女は名乗る。以来、正一に幸運が続くが、鏡の中の美女では触れることもできず、徐々に鏡の女がうっとうしい存在となっていく。正一は鏡を川に捨て、女から逃げようとするが…。憂いのない伝説の都アガルタは何処に…。 」
シャンバラやアガルタに関する伝説や秘密については、サイエンスエンターテナーこと飛鳥昭雄さんの書籍を何冊も読んできたこともあって、大いに興味があるテーマです。地球内部に、私たちが知らないもう1つの世界(多次元存在としての別世界)がある、という話しです。にわかには信じられないかと思いますが、昔から“謎学”に興味のある私としては、放っておけないテーマです。普段、マンガに触れる機会はほとんどないのですが、この漫画だけは読んでみたくなりました。
(話しがかなり脱線してしまいましたが)、館内にはほかにも、水木先生のフィールドワークである世界各地の民族資料の収集品や、先生の漫画家人生にまつわる思い出の品々、妖怪の精巧な人形や、日本各地や世界の妖怪の紹介などてんこ盛りで、大人から小さい子供まで楽しめる内容でした。
そんな展示品の中、水木先生が結婚式のために用意した義手がさりげなく置いてあったのには、思わずグッ…ときてしまいました。昨年放送されていた「ゲゲゲの女房」、毎朝欠かさず見るほど熱心な視聴者ではなかったのですが、義手のエピソードは知っていました。ハンディキャップを物ともせず、自らのペン一本で成功した水木先生の凄さを、改めて感じました。
記念館を出てからも、街中が妖怪だらけです。記念館のすぐ横にあるお菓子屋さんでは、「妖菓 目玉おやじ」を買いました。見た目の派手さとは違い、上品な甘さの和菓子でした。




記念館と駅の間を結ぶ商店街(水木しげるロード)には、100体以上の妖怪のブロンズ像が数メートルおきに展示されていて、歩いていても全く飽きません。私も含めて観光客のほとんどが、お気に入りの像の前で写真を撮っていました。



神社をお参りせずにはいられない私としては、妖怪神社の存在も気になりました。


そういえば昨年、ゲゲゲブームの時に水木先生を特集したテレビ番組を見たのですが、その時にとても印象深かったのが、町おこしのため、境港の商店が鬼太郎など妖怪のキャラクターを商品やパッケージに使用する際、ノベルティを一切取らず自由に使って構わない、と水木先生が話していたシーンです。普通、アニメやマンガの原作者や製作会社は、こうしたキャラクターの使用権については厳しく運用するケースがほとんどかと思いますが、自分の利益は横に置いて、故郷の人たちのために一肌脱ぐという姿勢。さすがは御大(おんたい)、本当に懐の深さを感じます。
お店が自由に商売できると、色々なアイデアで商品やサービスが生まれ、それを目当てに多くのお客さんが各地から集まる、それがうまく循環してさらに街が盛り上がって行く、という理想的な町おこしの事例を見た気がします。(それに引きかえ、当日午後に訪れた米子は駅前の大型店だけが賑わい、街の中心部にある昔からの商店街が完全なシャッター通りと化していて、何とも寂しい気持ちになりました)。
水木しげるという偉大な漫画家を核にして、街に住む人もそこを訪れる観光客も元気になれる場所、境港。こんな街が全国の至るところにあれば日本はもっと元気な国になれるのに…そんな気がしました。
私は、旅行先の街にお城があると、その街の様子や雰囲気を体感するためにも、出来るだけ観に行くようにしています。今回の山陰旅行では、米子市内の米子城址、松江市内の松江城の二か所を訪ねてきましたので、その様子をお伝えしたいと思います。
旅行初日、米子市内の名所を散策した際、その途中で米子城址を見学しました。
米子城は1591年、戦国武将である吉川広家が築城を開始し、1601年に駿河国から伯耆国城主として米子に移った中村一忠により完成、名実共に山陰一の名城となったそうです。その後、お家の断絶などもあって、米子城は鳥取藩の家老荒尾氏の預かりとなり、270年間にわたり維持されたそうですが、明治維新の数年後に解体されたそうです。
中海に面する山の頂上、時間にして20分少々山道を上ると、かなり立派な生垣が見えてきます。“城址”と聞いていたので、かなり寂れた雰囲気なのかな…と勝手に想像していたので、ここまで立派なものが残っているとは予想外でした。




そして石階段を上りきった場所に本丸跡があり、米子市を一望できる広場がありました。この城址が残る山の周囲には、さえぎるものが何一つないので、本当に360度、グルリと周囲を見渡すことができる絶景が広がっていました。米子城はかつて五重の天守閣を有していたそうで、今よりもさらに高い場所からの眺めは、それは格別だったことでしょう。



次は旅行3日目、松江市を観光しました。先日の記事でも書いたように、松江市を訪れるのは今回で3回目となります。過去2回とも、松江城に行きましたが、今回もこりずに登城してきました。これまでの各地の旅の思い出を振り返ると、私が訪ねた日本国内の城のうち、同じ城に三度登るというのは、今回が初めての経験です。これも何かの縁かもしれません…。
松江城
松江城の歴史は上記サイトに詳しく説明されていますが、230年の長い治世もあって、やはり松江のお殿様というと松平氏、特に7代藩主で有名な松平不昧(ふまい)公が、真っ先に思い浮かびます。
ちょっと遅れ気味ですが私は今、NHKで再放送されている「へうげもの」を毎週見ています。千利休に師事した大名茶人、古田織部を主人公としたアニメですが、これをきっかけに茶の歴史や茶器などにも最近、興味が出てきました。茶に湯に関連する本などを読んでいると、その歴史の中で江戸時代後期、不昧流という武家茶道を作り上げた人物として、松平不昧公の名前が出てきます。茶の湯の歴史も、相当奥が深いです。私も将来は、お茶をたしなむような文化人になりたいものです…。
(話しを戻して)いよいよ松江城に到着、黒色の外観で荘重な雰囲気が漂うお城です。千鳥が羽根を広げたように見える入母屋破風の屋根が見事なことから、別名「千鳥城」とも呼ばれます。何度見ても美しいお城です。




あまり時間に余裕がなかったので、城内各階の展示物の見学はそこそこに、一気に天守閣を登りました。(以前に登った時の記憶が定かではなかったのですが)天守閣の最上階は望楼式で、屋内から眼下の街並みを眺めました。やはり、廻り縁(最上階を取り巻く張出しの縁側)が無いのは、少々物足りなさを感じましたが。当日は雨が降ったり止んだりの天気だったのですが、登城した時にはかなり遠くまで見渡すことができ、特に南の方向に広がる宍道湖の眺めは格別でした。


ひと通り城内を見学した後、松江城のすぐ側にある松江歴史館に立ち寄りました。
松江歴史館
以前、松江に来た際にはまだこの施設はなかったので、今回が初めての見学となります。松江の歴史に関わる資料が数多く展示されていて、とても参考になりました。松平不昧に関連する展示物もありました(こちらの常設展示は写真撮影OKでした)



実際に松江城を訪ねた時にはすっかり忘れていたのですが、そういえば以前、テレビの紀行番組で、「松江では夏に盆踊りが行われない、そのわけは…」というエピソードが紹介されていたことを思い出しました。
松江城築城の際、何度工事をしても崩れてしまう石垣があったそうで、ある夏、盆踊りで踊っていた美しい娘がさらわれ、その石垣の場所に人柱として生き埋めにされたそうです。石垣は崩れなくなったものの、城が完成してからというもの、娘たちが盆踊りを踊るとお城全体が揺れ動くようになり、城下では盆踊りの禁止令が出された、というものです。
このエピソードは、小泉八雲が著書に書き留めているそうです。ネットで調べてみると、確かに松江では盆踊りの風習がないらしく、他県に引っ越して初めて盆踊りを知ったという人の話しも見かけました。昔からの風習の裏に怪異談あり…、小泉八雲が暮らした街を象徴するかのような話しです。
旅行初日、米子市内の名所を散策した際、その途中で米子城址を見学しました。
米子城は1591年、戦国武将である吉川広家が築城を開始し、1601年に駿河国から伯耆国城主として米子に移った中村一忠により完成、名実共に山陰一の名城となったそうです。その後、お家の断絶などもあって、米子城は鳥取藩の家老荒尾氏の預かりとなり、270年間にわたり維持されたそうですが、明治維新の数年後に解体されたそうです。
中海に面する山の頂上、時間にして20分少々山道を上ると、かなり立派な生垣が見えてきます。“城址”と聞いていたので、かなり寂れた雰囲気なのかな…と勝手に想像していたので、ここまで立派なものが残っているとは予想外でした。




そして石階段を上りきった場所に本丸跡があり、米子市を一望できる広場がありました。この城址が残る山の周囲には、さえぎるものが何一つないので、本当に360度、グルリと周囲を見渡すことができる絶景が広がっていました。米子城はかつて五重の天守閣を有していたそうで、今よりもさらに高い場所からの眺めは、それは格別だったことでしょう。



次は旅行3日目、松江市を観光しました。先日の記事でも書いたように、松江市を訪れるのは今回で3回目となります。過去2回とも、松江城に行きましたが、今回もこりずに登城してきました。これまでの各地の旅の思い出を振り返ると、私が訪ねた日本国内の城のうち、同じ城に三度登るというのは、今回が初めての経験です。これも何かの縁かもしれません…。
松江城
松江城の歴史は上記サイトに詳しく説明されていますが、230年の長い治世もあって、やはり松江のお殿様というと松平氏、特に7代藩主で有名な松平不昧(ふまい)公が、真っ先に思い浮かびます。
ちょっと遅れ気味ですが私は今、NHKで再放送されている「へうげもの」を毎週見ています。千利休に師事した大名茶人、古田織部を主人公としたアニメですが、これをきっかけに茶の歴史や茶器などにも最近、興味が出てきました。茶に湯に関連する本などを読んでいると、その歴史の中で江戸時代後期、不昧流という武家茶道を作り上げた人物として、松平不昧公の名前が出てきます。茶の湯の歴史も、相当奥が深いです。私も将来は、お茶をたしなむような文化人になりたいものです…。
(話しを戻して)いよいよ松江城に到着、黒色の外観で荘重な雰囲気が漂うお城です。千鳥が羽根を広げたように見える入母屋破風の屋根が見事なことから、別名「千鳥城」とも呼ばれます。何度見ても美しいお城です。




あまり時間に余裕がなかったので、城内各階の展示物の見学はそこそこに、一気に天守閣を登りました。(以前に登った時の記憶が定かではなかったのですが)天守閣の最上階は望楼式で、屋内から眼下の街並みを眺めました。やはり、廻り縁(最上階を取り巻く張出しの縁側)が無いのは、少々物足りなさを感じましたが。当日は雨が降ったり止んだりの天気だったのですが、登城した時にはかなり遠くまで見渡すことができ、特に南の方向に広がる宍道湖の眺めは格別でした。


ひと通り城内を見学した後、松江城のすぐ側にある松江歴史館に立ち寄りました。
松江歴史館
以前、松江に来た際にはまだこの施設はなかったので、今回が初めての見学となります。松江の歴史に関わる資料が数多く展示されていて、とても参考になりました。松平不昧に関連する展示物もありました(こちらの常設展示は写真撮影OKでした)



実際に松江城を訪ねた時にはすっかり忘れていたのですが、そういえば以前、テレビの紀行番組で、「松江では夏に盆踊りが行われない、そのわけは…」というエピソードが紹介されていたことを思い出しました。
松江城築城の際、何度工事をしても崩れてしまう石垣があったそうで、ある夏、盆踊りで踊っていた美しい娘がさらわれ、その石垣の場所に人柱として生き埋めにされたそうです。石垣は崩れなくなったものの、城が完成してからというもの、娘たちが盆踊りを踊るとお城全体が揺れ動くようになり、城下では盆踊りの禁止令が出された、というものです。
このエピソードは、小泉八雲が著書に書き留めているそうです。ネットで調べてみると、確かに松江では盆踊りの風習がないらしく、他県に引っ越して初めて盆踊りを知ったという人の話しも見かけました。昔からの風習の裏に怪異談あり…、小泉八雲が暮らした街を象徴するかのような話しです。
今回、旅行前にネットで下調べをしていたところ、名水「天の真名井」の情報を見つけました。
私は東京出身で、幼いころから東京のあまり美味しくない水道水を何の疑問もなく飲んでいました。大学卒業後に静岡の三島市に引っ越したのですが、そこで一番感動したのが、家の窓から見える富士山の景色、そして水道水の美味しさでした。都会の水とは全然違うことを、身に染みて感じました。三島の中心地から少し離れた所に、柿田川湧水群があります。ここは日本有数の湧水量を誇っており、名水百選にも選ばれています。
環境省選定 名水百選
かつて、そんな水の豊かな場所に暮らしていたこともあって、「名水」と聞くとどうしも関心が向いてしまいます。そういえば2年前に四国に行った際にも、「日本最後の清流」とも言われる高知県の四万十川に行ってきました…。帆掛け船に乗って、清流の美しさを堪能しました。
私はいつも旅行に行く際に「お水取り」を心掛けています。つまり、できるだけその土地の水を飲む、あるいは温泉がある場所でしたらお湯に浸ることで、その土地の持つパワーを体に取り込むようにしてます。今回の旅行でも、宿泊地のいずれにも運良く温泉があったので、1日目に米子近郊の「皆生温泉」、2日目に安来の「さぎの湯温泉」、3日目に「松江しんじ湖温泉」に浸かって、しっかりと温泉地巡りをしてきました。いいお湯を頂きました。
「天の真名井」は、その名前の通り、神話に由来する霊験あらたかな水ということもあって、是非、その水を頂いてみたいという気持ちになりました。上記の名水百選にも、当然ながら選ばれています。
今回は、旅行2日目の午前中に、米子から少し離れた淀江にある「白凰の里・古代の丘公園」を訪問する予定で、すぐそばにある施設でレンタサイクルを借りて10分ほどで「天の真名井」に到着できると分かったので、実際に行ってみました。
白凰の里
当日は一日中、天気も良くサイクリング日和(びより)でした。道筋には案内の看板もあって、迷うことなく10分ほどで到着しました。そこは思っていたよりも、静かで小さな場所でした。



鬱蒼と茂った木々の奥から流れてきた水が、膝丈くらいの高さの岩場から流れ落ち、すぐ横に広がる池に滔々と流れ込んでいました。池の水はもの凄く澄んでいて、中にはニジマスらしき川魚がゆらゆらと泳いでいました。





池の横には祠があり、地元の人たちから崇敬されている様子が伺えました。


池のすぐそばには、小さな小川が流れ、そこに水車小屋があります。水車にはびっしりと苔が生え、何とも風情のある水車でした。“小さな小川”とはいっても、水の流れはゴウゴウッといった感じで激しく、水車も勢いよくグルグルと回っていました。



周囲の雰囲気を十分に満喫したあと、先ほどの岩場に戻って、持参したペットボトルに名水を汲みました。こちらは天然の湧水なので、飲料する場合には安全のため煮沸が必要とのことでしたので、事前に容器を用意しておきました。かなりの重さになってしまい、水を持ち運びながら旅行を続けるわけにも行かないので、その後、宅配便で横浜の自宅に送付しました。帰宅後、水を飲んでみました。クセのない、柔らかな味わいの水でした。出雲の地のエネルギーに満ちた名水を頂けたことに感謝です。
私は東京出身で、幼いころから東京のあまり美味しくない水道水を何の疑問もなく飲んでいました。大学卒業後に静岡の三島市に引っ越したのですが、そこで一番感動したのが、家の窓から見える富士山の景色、そして水道水の美味しさでした。都会の水とは全然違うことを、身に染みて感じました。三島の中心地から少し離れた所に、柿田川湧水群があります。ここは日本有数の湧水量を誇っており、名水百選にも選ばれています。
環境省選定 名水百選
かつて、そんな水の豊かな場所に暮らしていたこともあって、「名水」と聞くとどうしも関心が向いてしまいます。そういえば2年前に四国に行った際にも、「日本最後の清流」とも言われる高知県の四万十川に行ってきました…。帆掛け船に乗って、清流の美しさを堪能しました。
私はいつも旅行に行く際に「お水取り」を心掛けています。つまり、できるだけその土地の水を飲む、あるいは温泉がある場所でしたらお湯に浸ることで、その土地の持つパワーを体に取り込むようにしてます。今回の旅行でも、宿泊地のいずれにも運良く温泉があったので、1日目に米子近郊の「皆生温泉」、2日目に安来の「さぎの湯温泉」、3日目に「松江しんじ湖温泉」に浸かって、しっかりと温泉地巡りをしてきました。いいお湯を頂きました。
「天の真名井」は、その名前の通り、神話に由来する霊験あらたかな水ということもあって、是非、その水を頂いてみたいという気持ちになりました。上記の名水百選にも、当然ながら選ばれています。
今回は、旅行2日目の午前中に、米子から少し離れた淀江にある「白凰の里・古代の丘公園」を訪問する予定で、すぐそばにある施設でレンタサイクルを借りて10分ほどで「天の真名井」に到着できると分かったので、実際に行ってみました。
白凰の里
当日は一日中、天気も良くサイクリング日和(びより)でした。道筋には案内の看板もあって、迷うことなく10分ほどで到着しました。そこは思っていたよりも、静かで小さな場所でした。



鬱蒼と茂った木々の奥から流れてきた水が、膝丈くらいの高さの岩場から流れ落ち、すぐ横に広がる池に滔々と流れ込んでいました。池の水はもの凄く澄んでいて、中にはニジマスらしき川魚がゆらゆらと泳いでいました。





池の横には祠があり、地元の人たちから崇敬されている様子が伺えました。


池のすぐそばには、小さな小川が流れ、そこに水車小屋があります。水車にはびっしりと苔が生え、何とも風情のある水車でした。“小さな小川”とはいっても、水の流れはゴウゴウッといった感じで激しく、水車も勢いよくグルグルと回っていました。



周囲の雰囲気を十分に満喫したあと、先ほどの岩場に戻って、持参したペットボトルに名水を汲みました。こちらは天然の湧水なので、飲料する場合には安全のため煮沸が必要とのことでしたので、事前に容器を用意しておきました。かなりの重さになってしまい、水を持ち運びながら旅行を続けるわけにも行かないので、その後、宅配便で横浜の自宅に送付しました。帰宅後、水を飲んでみました。クセのない、柔らかな味わいの水でした。出雲の地のエネルギーに満ちた名水を頂けたことに感謝です。
今回の山陰旅行ですが、当初全く予定していなかった場所を見に行くことになりました。これも旅の楽しみの一つです。
話しは旅行前にさかのぼります。旅行初日に宿泊する米子市内から、バスに乗って20分程の所に、山陰地方でも有数の温泉街、皆生(かいけ)温泉があります。温泉街にある観光ホテルの大半で立ち寄り湯ができるとのことで、さて、旅行当日はどこのホテルの温泉に入ろうかな…と、事前にネットで色々探していたところ、あるホテルが目に止まりました。そこは以前、日本の近代建築の本(日本におけるDOCOMOMO150選)に掲載されていた建物だ、とすぐに気付きました。
docomomo japan
日本におけるDOCOMOMO150選(wikipedia)
およそ観光地のホテルには似つかわしくない独特な形状で、いつか機会があれば是非訪ねてみたいな…と感じた建物でした。そのホテルは東光園といい、調べてみると設計者は菊竹清訓(きくたけきよのり)でした。菊竹さんの名前と、少し前に他界された事だけは知っていたものの、彼の代表作については記憶が曖昧だったので、温泉のことは横に置いておいて、改めてその事績を色々と調べてみると、誰もが知っている建築物を数多く残していることが分かりました。
菊竹清訓(wikipedia)
菊竹清訓建築設計事務所
「建築及び都市は、新陳代謝を通じて成長する有機体でなければならない」と説いて、建築運動“メタボリズム”を牽引した建築家、それが菊竹さんです。
大阪万博のエキスポタワー、沖縄海洋博のアクアポリスなどは、一定以上の年代の人であれば、昭和の懐かしい記憶が蘇ってくる、そんな思い出深い建築物でしょう。また、両国の江戸東京博物館、(かつて上野不忍池の近くにあって景観問題を招いた)ホテルソフィテル東京などは、東京に住む人だったら一度は見たことのある建物かと思います。特に、独特な形状をもつ江戸博は、国技館の真横に建っているので、今でも大相撲中継の時にはよくテレビの画面に映し出されますよね。
かなり意外だったのは、かつて静岡の三島市に住んでいたときに何度も訪れたことのあるベルナール・ビュフェ美術館が、菊竹さんの設計だったとは…知りませんでした。
色々と調べてみると、私が旅行で訪れる予定の米子・松江・出雲に、まるで見計らったかのように彼の作品が点在していることが分かったので、せっかくの機会なので今回、旅行中に5つの建築作品を実際に見て来ました。以下、旅行の行程順に紹介したいと思います。
①東光園(1965年作)
東光園
旅行初日の夕方、米子駅からバスで皆生温泉へ、温泉街をしばらく歩いて何とか日が沈む少し前に東光園に到着しました。以前見た、建築関連の書籍に掲載されていた写真の通り、幾つものパーツを複雑に積み上げて造り上げたようなホテルの外観は、周囲の建物とは明らかに異なり、独特な存在感を放っていました。巨大な梁で上層階を吊るという、特殊な工法が用いられているそうです。建物の上部に付けられた屋根は、出雲大社をイメージしているとのこと。彼の構想したメタボリズムの特徴(細胞が新陳代謝するかのように、建物を大きな塊ではなく部分部分のユニットで構成し、取り換え可能な仕組みとする考え)が、端的に表現された作品だと感じました。このホテル、ほぼ半世紀前の作品ですので、完成当時の衝撃度は相当なものだったかと思います。




館内を散策しているとホテルの模型が展示されていました。これを見れば建物の屋上の様子や各階の細部も確認できます。

この建物の真正面に庭園が広がり、その中になんと露天風呂があります(スウェットを着用して入ります)。お風呂から出た頃には、もうすっかり日も暮れて、ライトアップされたホテルの様子が印象的でした。


②島根県立美術館(1999年作)
島根県立美術館
旅行3日目に訪れた松江市、今回で三度目の訪問となります。こちらは宍道湖のほとりに立つ美術館で、以前に一度、来館したことがあります。私が訪ねた各地の美術館の中でも、ロケーションの素晴らしさでは群を抜いています。今回はあいにく休館日、しかも天気も雨だったので、宍道湖に沈む夕日を眺めることはできませんでした、残念…。
菊竹さんの作品の中でも、晩年に近い作品の1つで、それまでの作品とはかなり趣が異なる印象があります。建物が大きすぎて写真ではなかなか分かりにくいのですが、屋根のカーブや円形状の空洞など、建物自体が何か有機生命を彷彿とさせるような、とても柔らかい印象を覚えました。同じ頃の作品を見てみると、千代田区九段会館近くの「昭和館」といい、福岡太宰府の「九州国立博物館」といい、どれも共通して曲線的な特徴を有しているようです。興味深い作風の変遷です。





③田部美術館(1979年作)
田部美術館
松江城の近く、お堀の北にある塩見縄手沿いに建つ美術館です。近くにある小泉八雲旧居や記念館は何度も訪れたのですが、こちらの美術館は初めての訪問です。通り沿いの伝統的な長屋門をくぐると、中は一変して、錆色のスレートの大屋根の下に窓を広く取った、白壁の建物が見えてきます。



館内に入ると、休憩スペースを備えた大空間のロビーが広がり、前庭の日本庭園の緑をゆっくりと鑑賞することができます。直線的で緩やかなスロープを上がって、2階の展示室から所蔵品の陶磁器・工芸品を鑑賞していく導線となっています。こちらの建物は松江城のすぐそば、伝統的な美観地区に建っている美術館ということもあり、あまり奇をてらった意匠ではなく、展示作品の雰囲気に合った落ち着きのある建物、という印象を受けました。



④出雲大社宝物館<神枯殿>(1981年作)
旅行最終日に訪れた出雲大社。御仮殿の右手に、宝物館の神枯殿があります。外観の特徴としては、やはり屋根の形状でしょうか。一見すると平屋建てに見えますが、玄関正面に受付があり、右脇から入って緩やかなスロープを上り、2Fの展示室で宝物を鑑賞する造りとなっています。この館内の導線は、田部美術館のそれと似た感じですが、出雲大社の由緒ある宝物を展示する施設ということもあってか、開放感はほとんどなく神社施設特有の重厚な印象の建物でした。




⑤出雲大社庁の舎(1963年作)
こちらの建物は御仮殿の左手、ちょうど宝物館と正面を向きあうような位置に立っています。社務所に当たる建物です。私が出雲大社に初めて参拝したのは約20年前、社会人1年目の時です。出雲大社のような格式ある大神社に、なぜこんなヘンテコな形をしたコンクリートの建物が立っているのだろう?と、物凄い違和感をおぼえた記憶が、今でも鮮明に残っています。私にとっては、その当時からかなり印象深かった存在だった訳ですが、この作品こそが菊竹さんの初期の代表作、日本建築学会賞作品賞、日本におけるDOCOMOMO150選にも選ばれている著名な作品だったのです。




建物の中をチラッとのぞいてみると、御祈祷を受ける人たちの待合室があり、思った以上に明るい大空間が広がっていました。

ネットで調べていたところ、この庁の舎の建設の経緯と、それに関わった方々(菊竹さん本人も)のコメントが紹介されているサイトがありました(専門的な話題もかなり含まれていますが)。建築作品の一つ一つに歴史ありです。
出雲大社庁の舎(Ace建設業界)
今回の菊竹さんの建築物を巡ったことで、改めて他の作品も見てみたくなりました。できれば次は九州国立博物館かな…と、今後の旅行先に思いを巡らすのは楽しいものです。
話しは旅行前にさかのぼります。旅行初日に宿泊する米子市内から、バスに乗って20分程の所に、山陰地方でも有数の温泉街、皆生(かいけ)温泉があります。温泉街にある観光ホテルの大半で立ち寄り湯ができるとのことで、さて、旅行当日はどこのホテルの温泉に入ろうかな…と、事前にネットで色々探していたところ、あるホテルが目に止まりました。そこは以前、日本の近代建築の本(日本におけるDOCOMOMO150選)に掲載されていた建物だ、とすぐに気付きました。
docomomo japan
日本におけるDOCOMOMO150選(wikipedia)
およそ観光地のホテルには似つかわしくない独特な形状で、いつか機会があれば是非訪ねてみたいな…と感じた建物でした。そのホテルは東光園といい、調べてみると設計者は菊竹清訓(きくたけきよのり)でした。菊竹さんの名前と、少し前に他界された事だけは知っていたものの、彼の代表作については記憶が曖昧だったので、温泉のことは横に置いておいて、改めてその事績を色々と調べてみると、誰もが知っている建築物を数多く残していることが分かりました。
菊竹清訓(wikipedia)
菊竹清訓建築設計事務所
「建築及び都市は、新陳代謝を通じて成長する有機体でなければならない」と説いて、建築運動“メタボリズム”を牽引した建築家、それが菊竹さんです。
大阪万博のエキスポタワー、沖縄海洋博のアクアポリスなどは、一定以上の年代の人であれば、昭和の懐かしい記憶が蘇ってくる、そんな思い出深い建築物でしょう。また、両国の江戸東京博物館、(かつて上野不忍池の近くにあって景観問題を招いた)ホテルソフィテル東京などは、東京に住む人だったら一度は見たことのある建物かと思います。特に、独特な形状をもつ江戸博は、国技館の真横に建っているので、今でも大相撲中継の時にはよくテレビの画面に映し出されますよね。
かなり意外だったのは、かつて静岡の三島市に住んでいたときに何度も訪れたことのあるベルナール・ビュフェ美術館が、菊竹さんの設計だったとは…知りませんでした。
色々と調べてみると、私が旅行で訪れる予定の米子・松江・出雲に、まるで見計らったかのように彼の作品が点在していることが分かったので、せっかくの機会なので今回、旅行中に5つの建築作品を実際に見て来ました。以下、旅行の行程順に紹介したいと思います。
①東光園(1965年作)
東光園
旅行初日の夕方、米子駅からバスで皆生温泉へ、温泉街をしばらく歩いて何とか日が沈む少し前に東光園に到着しました。以前見た、建築関連の書籍に掲載されていた写真の通り、幾つものパーツを複雑に積み上げて造り上げたようなホテルの外観は、周囲の建物とは明らかに異なり、独特な存在感を放っていました。巨大な梁で上層階を吊るという、特殊な工法が用いられているそうです。建物の上部に付けられた屋根は、出雲大社をイメージしているとのこと。彼の構想したメタボリズムの特徴(細胞が新陳代謝するかのように、建物を大きな塊ではなく部分部分のユニットで構成し、取り換え可能な仕組みとする考え)が、端的に表現された作品だと感じました。このホテル、ほぼ半世紀前の作品ですので、完成当時の衝撃度は相当なものだったかと思います。




館内を散策しているとホテルの模型が展示されていました。これを見れば建物の屋上の様子や各階の細部も確認できます。

この建物の真正面に庭園が広がり、その中になんと露天風呂があります(スウェットを着用して入ります)。お風呂から出た頃には、もうすっかり日も暮れて、ライトアップされたホテルの様子が印象的でした。


②島根県立美術館(1999年作)
島根県立美術館
旅行3日目に訪れた松江市、今回で三度目の訪問となります。こちらは宍道湖のほとりに立つ美術館で、以前に一度、来館したことがあります。私が訪ねた各地の美術館の中でも、ロケーションの素晴らしさでは群を抜いています。今回はあいにく休館日、しかも天気も雨だったので、宍道湖に沈む夕日を眺めることはできませんでした、残念…。
菊竹さんの作品の中でも、晩年に近い作品の1つで、それまでの作品とはかなり趣が異なる印象があります。建物が大きすぎて写真ではなかなか分かりにくいのですが、屋根のカーブや円形状の空洞など、建物自体が何か有機生命を彷彿とさせるような、とても柔らかい印象を覚えました。同じ頃の作品を見てみると、千代田区九段会館近くの「昭和館」といい、福岡太宰府の「九州国立博物館」といい、どれも共通して曲線的な特徴を有しているようです。興味深い作風の変遷です。





③田部美術館(1979年作)
田部美術館
松江城の近く、お堀の北にある塩見縄手沿いに建つ美術館です。近くにある小泉八雲旧居や記念館は何度も訪れたのですが、こちらの美術館は初めての訪問です。通り沿いの伝統的な長屋門をくぐると、中は一変して、錆色のスレートの大屋根の下に窓を広く取った、白壁の建物が見えてきます。



館内に入ると、休憩スペースを備えた大空間のロビーが広がり、前庭の日本庭園の緑をゆっくりと鑑賞することができます。直線的で緩やかなスロープを上がって、2階の展示室から所蔵品の陶磁器・工芸品を鑑賞していく導線となっています。こちらの建物は松江城のすぐそば、伝統的な美観地区に建っている美術館ということもあり、あまり奇をてらった意匠ではなく、展示作品の雰囲気に合った落ち着きのある建物、という印象を受けました。



④出雲大社宝物館<神枯殿>(1981年作)
旅行最終日に訪れた出雲大社。御仮殿の右手に、宝物館の神枯殿があります。外観の特徴としては、やはり屋根の形状でしょうか。一見すると平屋建てに見えますが、玄関正面に受付があり、右脇から入って緩やかなスロープを上り、2Fの展示室で宝物を鑑賞する造りとなっています。この館内の導線は、田部美術館のそれと似た感じですが、出雲大社の由緒ある宝物を展示する施設ということもあってか、開放感はほとんどなく神社施設特有の重厚な印象の建物でした。




⑤出雲大社庁の舎(1963年作)
こちらの建物は御仮殿の左手、ちょうど宝物館と正面を向きあうような位置に立っています。社務所に当たる建物です。私が出雲大社に初めて参拝したのは約20年前、社会人1年目の時です。出雲大社のような格式ある大神社に、なぜこんなヘンテコな形をしたコンクリートの建物が立っているのだろう?と、物凄い違和感をおぼえた記憶が、今でも鮮明に残っています。私にとっては、その当時からかなり印象深かった存在だった訳ですが、この作品こそが菊竹さんの初期の代表作、日本建築学会賞作品賞、日本におけるDOCOMOMO150選にも選ばれている著名な作品だったのです。




建物の中をチラッとのぞいてみると、御祈祷を受ける人たちの待合室があり、思った以上に明るい大空間が広がっていました。

ネットで調べていたところ、この庁の舎の建設の経緯と、それに関わった方々(菊竹さん本人も)のコメントが紹介されているサイトがありました(専門的な話題もかなり含まれていますが)。建築作品の一つ一つに歴史ありです。
出雲大社庁の舎(Ace建設業界)
今回の菊竹さんの建築物を巡ったことで、改めて他の作品も見てみたくなりました。できれば次は九州国立博物館かな…と、今後の旅行先に思いを巡らすのは楽しいものです。
今回は、山陰旅行の2日目に訪問した足立美術館について紹介します。
今回の旅行の最大の目的地はここ、島根県安来市にある足立美術館でした。もうかなり以前から、美しい庭園と近代日本画のコレクションを有する美術館ということで憧れの存在でした。今年の春、ある方から是非、この美術館を訪れた方が良いですよと強くアドバイスされたこともきっかけとなって今回、十数年来の念願かなっての訪問となりました。
足立美術館
今回の旅行では、4日間のうち3日は雨が降ったり止んだりという天候だったのですが、美術館を訪れた日だけ唯一、一日中、晴天が続いたことは本当に幸運でした。JR安来駅からシャトルバスに乗って20分弱、足立美術館に到着しました。時刻はお昼過ぎの13時半頃でした。当日の夜の宿泊は、美術館のすぐそば(歩いて30秒ほどの場所)にある温泉旅館、さぎの湯荘を予約していたので、旅の荷物を宿に預けて身軽になってから、美術館に向かいました。

まだ美術館に入る前から、玄関の脇に綺麗な庭が広がり、いやがおうにも気分が高まってきました。ここは歓迎の庭といいます。

玄関ロビーを通り入場ゲートをくぐると正面に大きな窓があり、早速、広大な庭園の一部が見えてきました。この時点でかなりの感動ものでしたので、これから先はもっと凄いのだろうな…と思っていた矢先、後ろの方から団体ツアーの方々が次から次と押し寄せ、カメラのポジションを探すのが大変なぐらいの人混みになりました。確かに、さきほど乗ってきたシャトルバスが停車した美術館の駐車場がかなり広く、観光バスも十台近く停まっていたので、人気のある美術館なのだな…とは思っていたのですが、平日なのにこれほどの大混雑になるとは、全くのところ想像もしていませんでした。その後も、人が途切れることはありませんでした。

それでも私にとっては念願の訪問ですから、どうにかこうにか混雑の合間をぬって庭園を鑑賞しました。噂に聞いていた通り、庭園は素晴らしいの一言に尽きます。“一分(いちぶ)の隙も無い”とはまさにこの事です。
廊下を通っていくと、左手に茶室につながる庭(露地)が見えてきます。その奥にある茶室「寿立庵」は、京都の桂離宮の茶室を参考に造られたそうです(今回は残念ながら中には入りませんでした)。

廊下の右手に目をやると、今度は落ち着いた雰囲気の苔庭が広がっています。メインとなる広大な枯山水庭につながる側庭で、簡素で美しい庭です。写真を見てもわかるかと思いますが、庭に植えられている樹木が全て斜めになっています。これは、山の斜面で生まれ育った樹を、平地に持ってきて真っ直ぐに植えると、樹にとっては苦痛となるはずなのであえて斜めのままにした方が良い、という庭師の方の哲学が反映されているそうです。


廊下を先に進むと、苔庭のすぐ側に近づける屋外スペースがあり、そこに足立美術館の創設者、足立全康さんの銅像があります。右手を上げて指を差し、あたかも美術館を訪れた客人を案内しているかのような像でした。その印象通り、この像の名は「案内する足立翁」なのだそうで、像の作者は北村西望とのこと。さすが全康さん、著名な彫刻家に自分の銅像の製作を依頼するとは、やはり格が違います。

北村西望は、日本を代表する彫刻家の大御所で、長崎市の平和記念像が代表作として有名ですね。長崎を旅行した際に平和像を観たことがありますが、数年前、何の予備知識もないまま吉祥寺の井の頭公園を散策中、園内に北村西望記念館がありフラっと入ってみると、長崎の平和記念像と同一サイズの巨大な像があって、度胆を抜かれた記憶があります。
(話しを戻して)そしていよいよ、足立美術館の主庭である枯山水庭が見えてきました。遙か遠くの山々を借景としていて、これほど空間的な広がりを感じられる庭園というのは、私にとっては初めての体験です。庭の中央にある岩々が山を表し、そこから流れ出た水が大河となって広がる様を、手前の白砂が表現しているそうです。



この主庭を一番正面からじっくり眺められる所が、喫茶スペースになっています。こちらの店内は不思議なくらい空いていたので、窓側のソファアに座ってコーヒーを飲みながらゆっくり庭を鑑賞しました。何をするわけでもなく、30分程くつろいでいました。



因みに、ここで頂いたコーヒー、添えられた竹炭の棒でコーヒーをかき混ぜると、味がまろやかになるとのこと。早速、試して飲んでみたら、信じられないほど口当たりの優しい味になっていて驚きました。コーヒーはお替り自由なのも嬉しかったです。

一服し終わってさらに廊下を進んでいくと、美術館内の名物スポット、生の額絵の前にたどり着きました。窓枠を「額縁」に、その奥に広がる庭園を「絵」に見立てた仕掛けです。窓のすぐ外に配置された樹木が、良いアクセントになっていて、まさに琳派の絵のごとき風景を目にすることができます。自分が絵の中の世界に踏み込んだ気分にさせてくれます。

先に進むと、屋外に出られるスペースがあり、そこからは、庭園の奥にある小高い山の上から流れ落ちる滝を、真正面に眺めることができます。亀鶴の滝という縁起の良い名前だそうですが、館内の解説を読んでビックリ、滝は人工的に造られたものだそうです。館内に入ってから、滝の姿はチラチラと見えていたのですが、あまりに周囲の自然に調和していたので、人の手で造られたモノとは、にわかには信じられませんでした。

さらに歩を進めると、主庭とは反対側の屋外にある池庭に出ます。この池の辺りは美術館が開園する以前、足立全康さんの邸宅の庭だったとのこと。池の中では沢山の鯉たちが悠然と泳いでいました。かつて全康さんも天気の良い日、庭を眺めながら鯉たちにエサをあげていたのでしょう、きっと…。


庭園沿いの廊下をさらに進むと、最後に待ち構えているのは白砂青松庭です。ここは、横山大観の名作「白砂青松」をモチーフに造られた庭だそうです。普通、自然の風景をもとに絵を描く訳ですが、この庭は逆で、大観の作品をもとに自然の風景を造りこんだとのことで、全康さんの発想の凄さに感嘆しました。


庭園鑑賞はここまでです。ここから先は、本館内の企画展示室に入っていきます。私が訪問した時には「榊原紫峰とその仲間たち」展が開催されていました。

今回、開催中の展覧会情報については、ほとんど事前に予習してきませんでした。榊原紫峰の略歴や作品の特徴についても、恥ずかしながらこれまで全く知識がありませんでした。紫峰は、先日山種美術館で鑑賞した竹内栖鳳の弟子筋に当たる京都画壇の画家で、生涯、花鳥画を描き続けた人物だそうです。作品を鑑賞した印象としては、栖鳳などよりも、写実の緻密さなどで西洋画の影響を感じさせる作品が多く、その後、時代を経るに従って、より精神性を重んじる画風に転向していった点が特徴と言えます。改めて榊原紫峰という画家を知ることができて、良い機会となりました。
作品それ自体にもまして、広い展示場に50点近く展示されていた作品の全てが足立美術館所蔵という点に驚きました。これは一般的な展覧会の常識では考えられないことです…。
紫峰の大展示室を見終えると、今度は横山大観の特別展示室があります。何といっても足立美術館の目玉は、美しい日本庭園と、日本一と言われる横山大観のコレクションですので…。大観コレクションは年4回、展示替えをするそうなのですが、今回はタイミングよく、所蔵品の中でも最高・最大の大作と言われる「紅葉」を鑑賞することが出来ました。今の時期にぴったりの作品と言えます。縦1.6m、横3.6mの屏風絵で、コバルトブルーの流水の上に、真紅の紅葉(もみじ)と白い漣(さざなみ)が配された、秋の自然の景色を美しく、かつダイナミックに描いた作品です。さらに、漣の白銀色の部分には、プラチナが散りばめられているそうです。
言うまでもなく、横山大観は近代日本画の大家ですので、これまでに何度となく展覧会で、作品を鑑賞する機会がありました。上野不忍池の近く、大観の旧宅にある「横山大観記念館」にも足を運び、「霊峰飛鶴」など大観の代表作を鑑賞しましたが、これほどの超大作に出会ったのは今回が初めてです。繊細な自然の風景を巨大なスケールで描き切ってしまう大観の技量に、圧倒されっぱなしの状態でした。
大観の展示室の後にも、北大路魯山人展示室、河井寛次郎展示室があり、さらに本館から地下通路を通じた所にある新館では「院展」の出品作品が展示されていたのですが、あまりの作品の多さに最後は駆け足気味での鑑賞となってしましました。庭園をじっくり鑑賞し、展示作品をくまなく観るには、ほぼ1日、館内で過ごすくらいの気持ちでないといけません。何年先になるかは分かりませんが、次回訪れる際にはその心づもりで美術館に足を運びたいと思います。
足立美術館……
安来の山間部の長閑な温泉町に出現した日本美術の殿堂。
足立全康という稀代の美術品コレクターが造り上げた理想郷(シャングリラ)。

私の人生の中でも一、二を争うほど、強烈な印象が残った美術館でした。
今回の旅行の最大の目的地はここ、島根県安来市にある足立美術館でした。もうかなり以前から、美しい庭園と近代日本画のコレクションを有する美術館ということで憧れの存在でした。今年の春、ある方から是非、この美術館を訪れた方が良いですよと強くアドバイスされたこともきっかけとなって今回、十数年来の念願かなっての訪問となりました。
足立美術館
今回の旅行では、4日間のうち3日は雨が降ったり止んだりという天候だったのですが、美術館を訪れた日だけ唯一、一日中、晴天が続いたことは本当に幸運でした。JR安来駅からシャトルバスに乗って20分弱、足立美術館に到着しました。時刻はお昼過ぎの13時半頃でした。当日の夜の宿泊は、美術館のすぐそば(歩いて30秒ほどの場所)にある温泉旅館、さぎの湯荘を予約していたので、旅の荷物を宿に預けて身軽になってから、美術館に向かいました。

まだ美術館に入る前から、玄関の脇に綺麗な庭が広がり、いやがおうにも気分が高まってきました。ここは歓迎の庭といいます。

玄関ロビーを通り入場ゲートをくぐると正面に大きな窓があり、早速、広大な庭園の一部が見えてきました。この時点でかなりの感動ものでしたので、これから先はもっと凄いのだろうな…と思っていた矢先、後ろの方から団体ツアーの方々が次から次と押し寄せ、カメラのポジションを探すのが大変なぐらいの人混みになりました。確かに、さきほど乗ってきたシャトルバスが停車した美術館の駐車場がかなり広く、観光バスも十台近く停まっていたので、人気のある美術館なのだな…とは思っていたのですが、平日なのにこれほどの大混雑になるとは、全くのところ想像もしていませんでした。その後も、人が途切れることはありませんでした。

それでも私にとっては念願の訪問ですから、どうにかこうにか混雑の合間をぬって庭園を鑑賞しました。噂に聞いていた通り、庭園は素晴らしいの一言に尽きます。“一分(いちぶ)の隙も無い”とはまさにこの事です。
廊下を通っていくと、左手に茶室につながる庭(露地)が見えてきます。その奥にある茶室「寿立庵」は、京都の桂離宮の茶室を参考に造られたそうです(今回は残念ながら中には入りませんでした)。

廊下の右手に目をやると、今度は落ち着いた雰囲気の苔庭が広がっています。メインとなる広大な枯山水庭につながる側庭で、簡素で美しい庭です。写真を見てもわかるかと思いますが、庭に植えられている樹木が全て斜めになっています。これは、山の斜面で生まれ育った樹を、平地に持ってきて真っ直ぐに植えると、樹にとっては苦痛となるはずなのであえて斜めのままにした方が良い、という庭師の方の哲学が反映されているそうです。


廊下を先に進むと、苔庭のすぐ側に近づける屋外スペースがあり、そこに足立美術館の創設者、足立全康さんの銅像があります。右手を上げて指を差し、あたかも美術館を訪れた客人を案内しているかのような像でした。その印象通り、この像の名は「案内する足立翁」なのだそうで、像の作者は北村西望とのこと。さすが全康さん、著名な彫刻家に自分の銅像の製作を依頼するとは、やはり格が違います。

北村西望は、日本を代表する彫刻家の大御所で、長崎市の平和記念像が代表作として有名ですね。長崎を旅行した際に平和像を観たことがありますが、数年前、何の予備知識もないまま吉祥寺の井の頭公園を散策中、園内に北村西望記念館がありフラっと入ってみると、長崎の平和記念像と同一サイズの巨大な像があって、度胆を抜かれた記憶があります。
(話しを戻して)そしていよいよ、足立美術館の主庭である枯山水庭が見えてきました。遙か遠くの山々を借景としていて、これほど空間的な広がりを感じられる庭園というのは、私にとっては初めての体験です。庭の中央にある岩々が山を表し、そこから流れ出た水が大河となって広がる様を、手前の白砂が表現しているそうです。



この主庭を一番正面からじっくり眺められる所が、喫茶スペースになっています。こちらの店内は不思議なくらい空いていたので、窓側のソファアに座ってコーヒーを飲みながらゆっくり庭を鑑賞しました。何をするわけでもなく、30分程くつろいでいました。



因みに、ここで頂いたコーヒー、添えられた竹炭の棒でコーヒーをかき混ぜると、味がまろやかになるとのこと。早速、試して飲んでみたら、信じられないほど口当たりの優しい味になっていて驚きました。コーヒーはお替り自由なのも嬉しかったです。

一服し終わってさらに廊下を進んでいくと、美術館内の名物スポット、生の額絵の前にたどり着きました。窓枠を「額縁」に、その奥に広がる庭園を「絵」に見立てた仕掛けです。窓のすぐ外に配置された樹木が、良いアクセントになっていて、まさに琳派の絵のごとき風景を目にすることができます。自分が絵の中の世界に踏み込んだ気分にさせてくれます。

先に進むと、屋外に出られるスペースがあり、そこからは、庭園の奥にある小高い山の上から流れ落ちる滝を、真正面に眺めることができます。亀鶴の滝という縁起の良い名前だそうですが、館内の解説を読んでビックリ、滝は人工的に造られたものだそうです。館内に入ってから、滝の姿はチラチラと見えていたのですが、あまりに周囲の自然に調和していたので、人の手で造られたモノとは、にわかには信じられませんでした。

さらに歩を進めると、主庭とは反対側の屋外にある池庭に出ます。この池の辺りは美術館が開園する以前、足立全康さんの邸宅の庭だったとのこと。池の中では沢山の鯉たちが悠然と泳いでいました。かつて全康さんも天気の良い日、庭を眺めながら鯉たちにエサをあげていたのでしょう、きっと…。


庭園沿いの廊下をさらに進むと、最後に待ち構えているのは白砂青松庭です。ここは、横山大観の名作「白砂青松」をモチーフに造られた庭だそうです。普通、自然の風景をもとに絵を描く訳ですが、この庭は逆で、大観の作品をもとに自然の風景を造りこんだとのことで、全康さんの発想の凄さに感嘆しました。


庭園鑑賞はここまでです。ここから先は、本館内の企画展示室に入っていきます。私が訪問した時には「榊原紫峰とその仲間たち」展が開催されていました。

今回、開催中の展覧会情報については、ほとんど事前に予習してきませんでした。榊原紫峰の略歴や作品の特徴についても、恥ずかしながらこれまで全く知識がありませんでした。紫峰は、先日山種美術館で鑑賞した竹内栖鳳の弟子筋に当たる京都画壇の画家で、生涯、花鳥画を描き続けた人物だそうです。作品を鑑賞した印象としては、栖鳳などよりも、写実の緻密さなどで西洋画の影響を感じさせる作品が多く、その後、時代を経るに従って、より精神性を重んじる画風に転向していった点が特徴と言えます。改めて榊原紫峰という画家を知ることができて、良い機会となりました。
作品それ自体にもまして、広い展示場に50点近く展示されていた作品の全てが足立美術館所蔵という点に驚きました。これは一般的な展覧会の常識では考えられないことです…。
紫峰の大展示室を見終えると、今度は横山大観の特別展示室があります。何といっても足立美術館の目玉は、美しい日本庭園と、日本一と言われる横山大観のコレクションですので…。大観コレクションは年4回、展示替えをするそうなのですが、今回はタイミングよく、所蔵品の中でも最高・最大の大作と言われる「紅葉」を鑑賞することが出来ました。今の時期にぴったりの作品と言えます。縦1.6m、横3.6mの屏風絵で、コバルトブルーの流水の上に、真紅の紅葉(もみじ)と白い漣(さざなみ)が配された、秋の自然の景色を美しく、かつダイナミックに描いた作品です。さらに、漣の白銀色の部分には、プラチナが散りばめられているそうです。
言うまでもなく、横山大観は近代日本画の大家ですので、これまでに何度となく展覧会で、作品を鑑賞する機会がありました。上野不忍池の近く、大観の旧宅にある「横山大観記念館」にも足を運び、「霊峰飛鶴」など大観の代表作を鑑賞しましたが、これほどの超大作に出会ったのは今回が初めてです。繊細な自然の風景を巨大なスケールで描き切ってしまう大観の技量に、圧倒されっぱなしの状態でした。
大観の展示室の後にも、北大路魯山人展示室、河井寛次郎展示室があり、さらに本館から地下通路を通じた所にある新館では「院展」の出品作品が展示されていたのですが、あまりの作品の多さに最後は駆け足気味での鑑賞となってしましました。庭園をじっくり鑑賞し、展示作品をくまなく観るには、ほぼ1日、館内で過ごすくらいの気持ちでないといけません。何年先になるかは分かりませんが、次回訪れる際にはその心づもりで美術館に足を運びたいと思います。
足立美術館……
安来の山間部の長閑な温泉町に出現した日本美術の殿堂。
足立全康という稀代の美術品コレクターが造り上げた理想郷(シャングリラ)。

私の人生の中でも一、二を争うほど、強烈な印象が残った美術館でした。
(前回の続き)
手水舎を後にし、四の鳥居(日本最古の銅製の鳥居)をくぐると、いよいよ拝殿がその姿を現します。こちらは御仮殿(おかりでん)とよばれ現在、「平成の大遷宮」のため大国主神はここに仮に祀られています。注連縄が立派です。


出雲大社を参拝するにあたっては、他の神社と違って「二礼四拍手一礼」が基本です。私も間違えないように気をつけながら参拝をしました。これから様々な人たちと出会いご縁が深まりますように…と。
そういえば、そばにいた団体客のご老人がガイドさんに「この二礼四拍手一礼というのは出雲大社だけなんですか?」と聞いたところ、ガイドさんがどこかの神社の名前を挙げて説明していたことを思い出しました。はっきり聞き取れなかったので、改めてネットで探してみたところ全国に3社、佐賀県の祐徳神社、大分県の宇佐神宮、そして新潟県の弥彦神社があるということを知りました。
「むむっ、宇佐神宮?」
日本全国の八幡宮の総本宮として有名ですが、“謎学”に興味のある私としては、以前から“サイエンスエンターテナー”こと飛鳥昭雄さんの書籍を何冊も読んで、宇佐神宮に隠されてきた歴史的な事実に、とても興味がありました。飛鳥さんの著作は「とんでも本」と揶揄されることもありますが(あまりに常識を超えた話しばかりなので)、私としては腑に落ちる事実や、目から鱗が落ちることも数多くあって、洋の東西を問わず歴史は権力者によって捏造されたり、あるいは真実が封印されてきたという事を、強く認識するきっかけとなりました。
(宇佐神宮については、また別な機会で触れるとして…)参拝が済み、拝殿の横を通って奥に進むと、工事中の本殿が見えてきました。60年に1回葺き替えられる、桧皮葺きの屋根はすっかり綺麗になっていましたが、周囲の建物も改修しているため、敷地の奥の方は立ち入り禁止になっておました。来年5月に大遷宮が行われるので、今度来たときには、その全容を見ることができるかと思います。




本殿前の広場の一画に、2000年に発掘された、古代本殿の棟を支えた柱(宇豆柱:うずばしら)を模した印が示されていました。3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径は1.3mもあるそうです。

3つの〇印に、それを取り囲む大きな〇印。
普通の観光客でしたら、「へーっ、すごい大きな柱だったんだねー」と感心するだけで終わりですが、“謎学”に関心のある私としては、それで済ますわけには行きません。本殿の柱を模したこの形には、何やら他の意味が隠されているそうです(こちらもまた機会があれば、触れてみたいと思います)。
本殿の周囲にある摂社を巡ったあと、神楽殿へ。ここには、日本一の注連縄(長さ13m、重さ5t)があります。それにしても何故、立派な拝殿が現存しているのに、それとは別にこれほど大きな神楽殿が存在しているのか、よく分からなかったのですが、調べてみたところ、明治12年の出雲大社教が創始された際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来するのだそうです。


神楽殿の南側には、高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗(日の丸)が掲げられていました。NHKの放送終了時に流れる映像はこの国旗です。旗の重さ約50㎏、畳75枚分の大きさがあるそうです。あまりのスケールの大きさに、思わず口をポカンと空けて見上げてしまいました。


そういえば、この日章旗に関しても昨年、色々と話題になりました。2011年3月11日、東日本大震災が起こってから間もない翌月4日、この日章旗が真っ二つに裂けたという出来事です。大社側は「強風に煽られて裂けた」とコメントしているそうですが、真相はそんな単純な話しではない気がします。
島根県の出雲大社、長野県の諏訪大社、茨城県の鹿島神宮は、日本地図を見るとほぼ一直線上に位置していることは有名です。震災が起こった昨年、諏訪大社では「筒粥(つつがゆ)神事」という年初めの占いで「大凶」の結果が出たり、鹿島神宮では震災時、神社の象徴である大鳥居が崩壊するなどの出来事がありました。日本有数の神社で、こうした現象が相次いだ背景には、何かしら目に見えない世界(=神界)の影響があると考えても、何ら不思議ではありません。日本人は、真摯に畏敬の念を持って、八百万の神様と向かい合う必要があると感じます。
というわけで、出雲大社の参拝の様子はここまで。この大社には、まだまだ私の浅学では到達しえない事実や歴史が沢山あります。次回再訪する時には、今以上に知識を蓄えた上で参拝できればと思います。
手水舎を後にし、四の鳥居(日本最古の銅製の鳥居)をくぐると、いよいよ拝殿がその姿を現します。こちらは御仮殿(おかりでん)とよばれ現在、「平成の大遷宮」のため大国主神はここに仮に祀られています。注連縄が立派です。


出雲大社を参拝するにあたっては、他の神社と違って「二礼四拍手一礼」が基本です。私も間違えないように気をつけながら参拝をしました。これから様々な人たちと出会いご縁が深まりますように…と。
そういえば、そばにいた団体客のご老人がガイドさんに「この二礼四拍手一礼というのは出雲大社だけなんですか?」と聞いたところ、ガイドさんがどこかの神社の名前を挙げて説明していたことを思い出しました。はっきり聞き取れなかったので、改めてネットで探してみたところ全国に3社、佐賀県の祐徳神社、大分県の宇佐神宮、そして新潟県の弥彦神社があるということを知りました。
「むむっ、宇佐神宮?」
日本全国の八幡宮の総本宮として有名ですが、“謎学”に興味のある私としては、以前から“サイエンスエンターテナー”こと飛鳥昭雄さんの書籍を何冊も読んで、宇佐神宮に隠されてきた歴史的な事実に、とても興味がありました。飛鳥さんの著作は「とんでも本」と揶揄されることもありますが(あまりに常識を超えた話しばかりなので)、私としては腑に落ちる事実や、目から鱗が落ちることも数多くあって、洋の東西を問わず歴史は権力者によって捏造されたり、あるいは真実が封印されてきたという事を、強く認識するきっかけとなりました。
(宇佐神宮については、また別な機会で触れるとして…)参拝が済み、拝殿の横を通って奥に進むと、工事中の本殿が見えてきました。60年に1回葺き替えられる、桧皮葺きの屋根はすっかり綺麗になっていましたが、周囲の建物も改修しているため、敷地の奥の方は立ち入り禁止になっておました。来年5月に大遷宮が行われるので、今度来たときには、その全容を見ることができるかと思います。




本殿前の広場の一画に、2000年に発掘された、古代本殿の棟を支えた柱(宇豆柱:うずばしら)を模した印が示されていました。3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径は1.3mもあるそうです。

3つの〇印に、それを取り囲む大きな〇印。
普通の観光客でしたら、「へーっ、すごい大きな柱だったんだねー」と感心するだけで終わりですが、“謎学”に関心のある私としては、それで済ますわけには行きません。本殿の柱を模したこの形には、何やら他の意味が隠されているそうです(こちらもまた機会があれば、触れてみたいと思います)。
本殿の周囲にある摂社を巡ったあと、神楽殿へ。ここには、日本一の注連縄(長さ13m、重さ5t)があります。それにしても何故、立派な拝殿が現存しているのに、それとは別にこれほど大きな神楽殿が存在しているのか、よく分からなかったのですが、調べてみたところ、明治12年の出雲大社教が創始された際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来するのだそうです。


神楽殿の南側には、高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗(日の丸)が掲げられていました。NHKの放送終了時に流れる映像はこの国旗です。旗の重さ約50㎏、畳75枚分の大きさがあるそうです。あまりのスケールの大きさに、思わず口をポカンと空けて見上げてしまいました。


そういえば、この日章旗に関しても昨年、色々と話題になりました。2011年3月11日、東日本大震災が起こってから間もない翌月4日、この日章旗が真っ二つに裂けたという出来事です。大社側は「強風に煽られて裂けた」とコメントしているそうですが、真相はそんな単純な話しではない気がします。
島根県の出雲大社、長野県の諏訪大社、茨城県の鹿島神宮は、日本地図を見るとほぼ一直線上に位置していることは有名です。震災が起こった昨年、諏訪大社では「筒粥(つつがゆ)神事」という年初めの占いで「大凶」の結果が出たり、鹿島神宮では震災時、神社の象徴である大鳥居が崩壊するなどの出来事がありました。日本有数の神社で、こうした現象が相次いだ背景には、何かしら目に見えない世界(=神界)の影響があると考えても、何ら不思議ではありません。日本人は、真摯に畏敬の念を持って、八百万の神様と向かい合う必要があると感じます。
というわけで、出雲大社の参拝の様子はここまで。この大社には、まだまだ私の浅学では到達しえない事実や歴史が沢山あります。次回再訪する時には、今以上に知識を蓄えた上で参拝できればと思います。
今回は、山陰旅行の最終日に訪問した、出雲大社の参拝の様子をお伝えしようと思います。ちなみに出雲大社の呼び方ですが、正確には「いずもおおやしろ」ですね…。
出雲大社
松江から一畑電鉄に乗り約1時間、出雲大社前駅に到着、当日の朝は天気も良く気分も高まってきました。駅から見て大社は北側に位置していますが、参拝に向かう前に、まず駅の南側にある見どころを先に廻りました。駅から少し歩くと、巨大な白い大鳥居(一の鳥居)が目に入ってきます。この鳥居は、九州小倉の篤志家により、松の並木280本とともに寄進されたそうです。 一個人の尽力で、大社周辺の景観が今のように整備されていたとは驚きです。

そこからさらに南に歩いていくと、JR旧大社駅に到着します。1990年の廃駅まで出雲大社の表玄関口として利用されてきた大社駅は、全国でも珍しい神社様式を取り入れた純日本風の木造建築で、重要文化財に指定されているそうです。駅舎内には営業当時の面影をしのばせる物がたくさん残っていて、何とも懐かしい雰囲気に浸ることができました。


ひと通り駅舎を見学したあと、もと来た道を北へ、表参道(神門通り)の緩やかな坂道を上りきった場所に、出雲大社の木製の大鳥居(二の鳥居)が見えてきました。いよいよここから神域に入ります。


鳥居をくぐると、参拝者の人たちのほとんどは、そのまま真っ直ぐ参道を歩いて行くのですが、鳥居を過ぎてすぐ、参道の右手の木立の中に、何やら銅像や石碑があるのが見えたので、芝生を横切って近づいてみました。


銅像の人物は明治時代、「出雲大社教」という教派神道の創設者で、出雲大社大宮司もであった千家尊福(せんげたかとみ)という方でした。千家家は代々、出雲大社の宮司を務める家柄(出雲国造)で、祖先をたどると、国譲りに応じた大国主命を祀るため天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命(あまのほひのみこと)を始祖とするそうです。前回の記事で紹介した神魂(かもす)神社も、天穂日命の創建と伝えられています。日本史上、千家家は天皇家に次いで二番目に古い祖先の系統をもつ家柄なのだそうです。
なるほどなぁ…と感心しながら、さらに奥に位置する石碑に近づくと、その石碑には「大本教祖火の御用記念碑」と刻まれていました。出口なお、王仁三郎を教祖とする教派神道、あの、大本(おおもと)に関する石碑でした。出口なおの“お筆先(自動筆記)”や「大本神諭」、王仁三郎の「霊界通信」、そして戦前の政府による大弾圧など、宗教としてよりも“謎学”の立場から諸々の関連本を通じて、大本については多少知っていたのですが、出雲大社の境内の一角にこれほど立派な碑が立っているとは…。全く予想していなかったので正直、呆気にとられてしまいました。


出雲大社と大本の関係、かなり深いものがありそうです。改めて自分なりに調べてみようと思いました。それにしても、もし鳥居をくぐってそのまま真っ直ぐに進んでいたら、こうした事実も知り得なかった訳で…。これは偶然の出来事のようで、実は必然だったのかもしれません。
気持ちを切り替えて、改めて参道に戻って坂道を下っていくと、右手側に小さな祠が見えてきます。


そこは「祓社」という出雲大社の末社で、参拝者は本来、まずこの祠の前で心身を祓い清めてから、奥にある拝殿を参拝するのが正しい順序、ということを事前に予習していたので、見落とすことなくお参りしました。ほとんどの参拝者は、祠の前の立札すら目もくれずに直進していました…。
三の鳥居をくぐって松並木を進んでいくと、左右の両方に大国主神の銅像が見えてきます。
右手が「ムスビの御神像」で、大国主神が日本海の荒海から現れた「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」を授けられ、ムスビの神になったとされる場面を再現した像です。

左手が「御慈愛の御神像」で、こちらは有名な「因幡の白ウサギ」の物語の一場面を表した像です。

この像の先にある手水舎で両手と口をすすいだら、いよいよ拝殿での参拝となります。この手水舎も相当な大きさです。

それにしても、今回の記事では触れませんでしたが、稲が植えられた田んぼや池、緑の芝生が美しい広場、奉納相撲を行うための土俵、女性像やオブジェなどの彫刻作品、過去の来歴を物語る立札など様々なものがあり、大社の入口からここにたどり着くまでに、すでに1時間近く経っていました。いろいろな点で本当に奥が深い大社(おおやしろ)です。
出雲大社
松江から一畑電鉄に乗り約1時間、出雲大社前駅に到着、当日の朝は天気も良く気分も高まってきました。駅から見て大社は北側に位置していますが、参拝に向かう前に、まず駅の南側にある見どころを先に廻りました。駅から少し歩くと、巨大な白い大鳥居(一の鳥居)が目に入ってきます。この鳥居は、九州小倉の篤志家により、松の並木280本とともに寄進されたそうです。 一個人の尽力で、大社周辺の景観が今のように整備されていたとは驚きです。

そこからさらに南に歩いていくと、JR旧大社駅に到着します。1990年の廃駅まで出雲大社の表玄関口として利用されてきた大社駅は、全国でも珍しい神社様式を取り入れた純日本風の木造建築で、重要文化財に指定されているそうです。駅舎内には営業当時の面影をしのばせる物がたくさん残っていて、何とも懐かしい雰囲気に浸ることができました。


ひと通り駅舎を見学したあと、もと来た道を北へ、表参道(神門通り)の緩やかな坂道を上りきった場所に、出雲大社の木製の大鳥居(二の鳥居)が見えてきました。いよいよここから神域に入ります。


鳥居をくぐると、参拝者の人たちのほとんどは、そのまま真っ直ぐ参道を歩いて行くのですが、鳥居を過ぎてすぐ、参道の右手の木立の中に、何やら銅像や石碑があるのが見えたので、芝生を横切って近づいてみました。


銅像の人物は明治時代、「出雲大社教」という教派神道の創設者で、出雲大社大宮司もであった千家尊福(せんげたかとみ)という方でした。千家家は代々、出雲大社の宮司を務める家柄(出雲国造)で、祖先をたどると、国譲りに応じた大国主命を祀るため天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命(あまのほひのみこと)を始祖とするそうです。前回の記事で紹介した神魂(かもす)神社も、天穂日命の創建と伝えられています。日本史上、千家家は天皇家に次いで二番目に古い祖先の系統をもつ家柄なのだそうです。
なるほどなぁ…と感心しながら、さらに奥に位置する石碑に近づくと、その石碑には「大本教祖火の御用記念碑」と刻まれていました。出口なお、王仁三郎を教祖とする教派神道、あの、大本(おおもと)に関する石碑でした。出口なおの“お筆先(自動筆記)”や「大本神諭」、王仁三郎の「霊界通信」、そして戦前の政府による大弾圧など、宗教としてよりも“謎学”の立場から諸々の関連本を通じて、大本については多少知っていたのですが、出雲大社の境内の一角にこれほど立派な碑が立っているとは…。全く予想していなかったので正直、呆気にとられてしまいました。


出雲大社と大本の関係、かなり深いものがありそうです。改めて自分なりに調べてみようと思いました。それにしても、もし鳥居をくぐってそのまま真っ直ぐに進んでいたら、こうした事実も知り得なかった訳で…。これは偶然の出来事のようで、実は必然だったのかもしれません。
気持ちを切り替えて、改めて参道に戻って坂道を下っていくと、右手側に小さな祠が見えてきます。


そこは「祓社」という出雲大社の末社で、参拝者は本来、まずこの祠の前で心身を祓い清めてから、奥にある拝殿を参拝するのが正しい順序、ということを事前に予習していたので、見落とすことなくお参りしました。ほとんどの参拝者は、祠の前の立札すら目もくれずに直進していました…。
三の鳥居をくぐって松並木を進んでいくと、左右の両方に大国主神の銅像が見えてきます。
右手が「ムスビの御神像」で、大国主神が日本海の荒海から現れた「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」を授けられ、ムスビの神になったとされる場面を再現した像です。

左手が「御慈愛の御神像」で、こちらは有名な「因幡の白ウサギ」の物語の一場面を表した像です。

この像の先にある手水舎で両手と口をすすいだら、いよいよ拝殿での参拝となります。この手水舎も相当な大きさです。

それにしても、今回の記事では触れませんでしたが、稲が植えられた田んぼや池、緑の芝生が美しい広場、奉納相撲を行うための土俵、女性像やオブジェなどの彫刻作品、過去の来歴を物語る立札など様々なものがあり、大社の入口からここにたどり着くまでに、すでに1時間近く経っていました。いろいろな点で本当に奥が深い大社(おおやしろ)です。
いよいよ、先日の山陰旅行の様子をお伝えしたいと思います。今回の旅行では毎日あちこち様々な場所を周っていたので、できるだけ分かりやすく、旅の行程順ではなくテーマ別に分けて、旅の様子を書き進めたいと思います。
まずは神社参拝です。山陰、出雲地方の名所を観光するに当たって、神社巡りは欠かせません。旅行初日、米子空港に到着したあと、まず最初に向かった目的地は、島根半島のほぼ東端に位置する「美保神社」です。JR境港駅からバスとタクシーを乗り継いで約40分、ようやく小さな漁港に面した美保神社に到着しました。途中、タクシーの運転手さんが、車内で地元の民謡を歌ってくれ旅の気分を盛り上げてくれました。
今回の旅行で、ここだけは欠かせないという場所が3か所あったのですが、そのうちの1つが美保神社でした。美保神社の祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)=エビス様で、先日のブログでも書いたように、古事記の神話に因む青柴垣神事、諸手船神事というお祭りが有名です。
神社は、小さな漁港を正面にして鳥居が立ち、それ以外の三方をぐるりと山に囲まれた場所に建てられていて、周囲の森の懐に包まれるかのように佇んでいました。訪れた時には、自分以外の参拝者は数えるほどしかいなく、静かな環境の中で心穏やかにお参りすることができました。




かつて私は10年近くの間、静岡県の三島市で暮らしていました。三島市には伊豆国の一の宮、三島大社があり、そこから歩いて5分ほどの近所に住んでいたこともあって、普段から大社にはよくお参りをしていました。実は三島で現在の妻と出会い結婚したのですが、妻の実家が三島市内にある関係で、横浜で暮らしている今でも毎年、初詣で三島大社を必ず訪れています。
三島大社
三島大社の主祭神は、大山祇神(おおやまずみのかみ)と事代主神の二神です。事代主神については伝説があり、美保で国を譲ってしまった責任を取って引き籠もられた神が、遠く離れた伊豆の国で再生して三島明神となり、最終的に鎮座した場所が三島大社と言われているそうです(他にも説があるようですが)。というわけで、三島大社と関わりの深い私にとっては、美保神社はとてもご縁がある神社ということで、今回、念願かなっての参拝となりました。縁とはつくづく、不思議なものです。
余談ですが、境内には参拝者のために、境内の案内図や神社の歴史・祭事、それに写真撮影のベストポジションなどを紹介した、持ち運びに便利なラミネート加工した案内資料が用意されていて、とても重宝しました。これは是非、他の神社にも置いておいて欲しいアイテムです。

次に紹介するのは旅行3日目、松江市を訪れた際に参拝した「八重垣神社」と「神魂(かもす)神社」です。JR松江駅からバスに乗り、20分ほどでまず「八重垣神社」に到着しました。
八重垣神社
事前に、駅の観光案内所でもらったパンフレットを見たところ、こちらの神社では“縁結び娘”という女性のボランティアが毎日、定刻になると境内を無料案内してくれるとの情報が紹介されていて、神社に到着して早々、さっそく案内が始まりました。神社を訪れた個人の参拝者を対象に、こうした案内をしてくれるというのは初めての経験でしたので、普段の参拝とは少々趣を変えて、他の方々と一緒に観光気分で境内を巡りました。
八重垣神社ガイド 縁結び娘




八重垣神社は、素戔嗚尊と稲田姫神が結ばれた場所に因む神社ということで、結婚や男女の縁にご利益があるとされ、特に若い女性を中心に参拝者が増えているそうです。
社殿のある敷地から道を隔てて少し歩いた森の中に「鏡の池」という小さな池があるのですが、参拝者の多くが、その池で「縁結び占い」をするそうです。私はしませんでしたが…。


八重垣神社の境内をひと通り巡ったあと、神社の横にあるお土産店でレンタサイクルを借りて、次に「神魂神社」に向かいました。八重垣神社からは自転車で15分くらいの所にあります。
主祭神はイザナミノミコトで、この神社を建てたのは天照大神の息子の天穂日命(あまのほひのみこと)とされます。天穂日命は、出雲を治めていた大国主神に国譲りをするように説得するため、高天原から遣わされましたが、逆に大国主神に付き従ってしまい、出雲の地に住み着いてしまったエピソードで知られていますね。現在の出雲大社の宮司さんは、過去にさかのぼるとこの天穂日命が先祖と言われています。
本殿は、現存する最古の大社造りということで、国宝にも指定されています。そんな由緒ある神社を参拝しないわけには行きませんので、かなり空模様が怪しかったものの、自転車に乗って出発しました。すると数分も経たないうちに雨がポツポツと、しばらくするとかなり強い雨に変わりました。なんとか神社に着いたものの、拝殿で参拝していると、これまでにも増して土砂降りの雨が…。今回の旅行の中で最悪のコンディションとなってしまったのですが、その後、ビショ濡れになりながらも、どうにか出発地点の八重垣神社に戻って、自転車を返却することができました。
八重垣神社と比べると、明らかに参拝者の数が少なく、鬱蒼とした木立の中に社殿が建っていることもあって、とても厳かな雰囲気が漂う神社でした。



美保神社、八重垣神社、神魂神社、いずれも三者三様の特徴があり、各神社を今回参拝できたことはとても貴重な体験となりました。次はいよいよ、出雲大社に向かいます。
まずは神社参拝です。山陰、出雲地方の名所を観光するに当たって、神社巡りは欠かせません。旅行初日、米子空港に到着したあと、まず最初に向かった目的地は、島根半島のほぼ東端に位置する「美保神社」です。JR境港駅からバスとタクシーを乗り継いで約40分、ようやく小さな漁港に面した美保神社に到着しました。途中、タクシーの運転手さんが、車内で地元の民謡を歌ってくれ旅の気分を盛り上げてくれました。
今回の旅行で、ここだけは欠かせないという場所が3か所あったのですが、そのうちの1つが美保神社でした。美保神社の祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)=エビス様で、先日のブログでも書いたように、古事記の神話に因む青柴垣神事、諸手船神事というお祭りが有名です。
神社は、小さな漁港を正面にして鳥居が立ち、それ以外の三方をぐるりと山に囲まれた場所に建てられていて、周囲の森の懐に包まれるかのように佇んでいました。訪れた時には、自分以外の参拝者は数えるほどしかいなく、静かな環境の中で心穏やかにお参りすることができました。




かつて私は10年近くの間、静岡県の三島市で暮らしていました。三島市には伊豆国の一の宮、三島大社があり、そこから歩いて5分ほどの近所に住んでいたこともあって、普段から大社にはよくお参りをしていました。実は三島で現在の妻と出会い結婚したのですが、妻の実家が三島市内にある関係で、横浜で暮らしている今でも毎年、初詣で三島大社を必ず訪れています。
三島大社
三島大社の主祭神は、大山祇神(おおやまずみのかみ)と事代主神の二神です。事代主神については伝説があり、美保で国を譲ってしまった責任を取って引き籠もられた神が、遠く離れた伊豆の国で再生して三島明神となり、最終的に鎮座した場所が三島大社と言われているそうです(他にも説があるようですが)。というわけで、三島大社と関わりの深い私にとっては、美保神社はとてもご縁がある神社ということで、今回、念願かなっての参拝となりました。縁とはつくづく、不思議なものです。
余談ですが、境内には参拝者のために、境内の案内図や神社の歴史・祭事、それに写真撮影のベストポジションなどを紹介した、持ち運びに便利なラミネート加工した案内資料が用意されていて、とても重宝しました。これは是非、他の神社にも置いておいて欲しいアイテムです。

次に紹介するのは旅行3日目、松江市を訪れた際に参拝した「八重垣神社」と「神魂(かもす)神社」です。JR松江駅からバスに乗り、20分ほどでまず「八重垣神社」に到着しました。
八重垣神社
事前に、駅の観光案内所でもらったパンフレットを見たところ、こちらの神社では“縁結び娘”という女性のボランティアが毎日、定刻になると境内を無料案内してくれるとの情報が紹介されていて、神社に到着して早々、さっそく案内が始まりました。神社を訪れた個人の参拝者を対象に、こうした案内をしてくれるというのは初めての経験でしたので、普段の参拝とは少々趣を変えて、他の方々と一緒に観光気分で境内を巡りました。
八重垣神社ガイド 縁結び娘




八重垣神社は、素戔嗚尊と稲田姫神が結ばれた場所に因む神社ということで、結婚や男女の縁にご利益があるとされ、特に若い女性を中心に参拝者が増えているそうです。
社殿のある敷地から道を隔てて少し歩いた森の中に「鏡の池」という小さな池があるのですが、参拝者の多くが、その池で「縁結び占い」をするそうです。私はしませんでしたが…。


八重垣神社の境内をひと通り巡ったあと、神社の横にあるお土産店でレンタサイクルを借りて、次に「神魂神社」に向かいました。八重垣神社からは自転車で15分くらいの所にあります。
主祭神はイザナミノミコトで、この神社を建てたのは天照大神の息子の天穂日命(あまのほひのみこと)とされます。天穂日命は、出雲を治めていた大国主神に国譲りをするように説得するため、高天原から遣わされましたが、逆に大国主神に付き従ってしまい、出雲の地に住み着いてしまったエピソードで知られていますね。現在の出雲大社の宮司さんは、過去にさかのぼるとこの天穂日命が先祖と言われています。
本殿は、現存する最古の大社造りということで、国宝にも指定されています。そんな由緒ある神社を参拝しないわけには行きませんので、かなり空模様が怪しかったものの、自転車に乗って出発しました。すると数分も経たないうちに雨がポツポツと、しばらくするとかなり強い雨に変わりました。なんとか神社に着いたものの、拝殿で参拝していると、これまでにも増して土砂降りの雨が…。今回の旅行の中で最悪のコンディションとなってしまったのですが、その後、ビショ濡れになりながらも、どうにか出発地点の八重垣神社に戻って、自転車を返却することができました。
八重垣神社と比べると、明らかに参拝者の数が少なく、鬱蒼とした木立の中に社殿が建っていることもあって、とても厳かな雰囲気が漂う神社でした。



美保神社、八重垣神社、神魂神社、いずれも三者三様の特徴があり、各神社を今回参拝できたことはとても貴重な体験となりました。次はいよいよ、出雲大社に向かいます。
10月28日から3泊4日の日程で、念願だった山陰旅行に行ってきました。本当に充実した旅行でしたが、その前に、旅行出発の前々日、神奈川県川崎市にある生田緑地周辺の施設を散策してきましたので、そちらからお伝えしたいと思います。
当日は晴天だったこともあり、まず生田緑地の「ばら苑」を観に行きました。ここはバラの開花期(年2回)にしかオープンしない施設で、今回が初めての訪問となります。今回訪れた「ばら苑」は、2002年3月に向ヶ丘遊園が閉園したのち、園内にあった「ばら苑」の存続を求めた市民の要望を受けて、川崎市が運営を引き継いだとのこと。地元の人たちから愛されていたのですね…。
生田緑地ばら苑
いよいよ「ばら苑」に到着、そこはまさに見渡す限りのバラの園(その)でした。


今度は春の季節に開園するそうなので、また天気が良い日を見はからって再訪したいと思います。
今回の生田緑地の散策には、実はもう1つ目的地がありました。「ばら苑」を後にして次に向かったのは「川崎市岡本太郎美術館」です。ここは今回で3回目の訪問となります。
川崎市岡本太郎美術館
岡本太郎……私が尊敬して止まない芸術家の1人です。画家・彫刻家でありながら、評論・文筆活動を行い、考古学・民俗学にも精通している知識人。芸術家という枠に収まりきらない、一人の人間として憧れる偉大な人物です。すべての作品から放たれる強烈なパワーは、他の芸術家とは一線を画している、まさにオンリーワンの存在感です。
今から20年近く前、大学4年生の冬に卒業旅行で(といっても気ままな一人旅でしたが)大阪巡りをしました。生まれも育ちも東京で、中学校の修学旅行で京都・奈良しか訪れたことのなかった私としては、関西の中心地、大阪のコテコテの雰囲気を体感してみたかったのです。その旅行の際に是非行ってみたい所が3つありました。道頓堀、通天閣、そして「太陽の塔」です。万博公園で塔を目の当りにした時、その偉容に圧倒されたことを、今でも鮮明に覚えています。
万博公園 太陽の塔
数年前、メキシコで制作された幻の大作「明日の神話」が発見・復元された時も汐留に足を運びましたし、昨年は生誕百年を記念して開催された東京国立近代美術館の「岡本太郎展」も観に行きました。こちらは大盛況で、1時間以上並んで入場しました。特に20代くらいの若者が多くいた印象があります。世代を超えた人気ぶりを感じましたね。
生誕100年 岡本太郎展
私は、自宅から東京都内に電車で向かう際には東急田園都市線を利用するのですが、ちょうど多摩川に差し掛かる時、土手沿いに目をやると、ウネウネした形の白いオブジェがチラリと見えてきます。普段の日常の光景の中にも、太郎の作品が身近に存在しています。
岡本かの子文学碑「誇り」(宮前区市民サイト)
前段が長くなりましたが、以下、美術館の様子です。




実は今年9月、妻と2泊3日で名古屋に旅行に行ったのですが、その旅行の際にも是非行ってみたい所が3か所ありました。熱田神宮、犬山城、そして「日本モンキーパーク」です。
日本モンキーパーク
なぜモンキーパークなのか…、確かに私は申年生まれで猿は大好きなのですが、目的はかわいいお猿さん達ではなく、太郎が大阪万博の「太陽の塔」の前年(1969年)に製作した「若き太陽の塔」を観るためでした。この塔は大阪の塔と比べてかなりマイナーな存在ですが、昨年、塔がお色直ししてリニューアル公開されたとの情報を聞いていたので、この機会に是非訪れてみたいと思っていました。
炎天下、巨大な塔の下に立ったとき、20年の歳月を経てまさにデジャヴュのような感覚に襲われました。



愛すべき岡本太郎のことを書き出すと、アレもコレも…となって収拾がつかなくなってしまうのですが、太郎の魅力は数多くの作品以上に、その生き様というか、彼が語った言葉に強く惹かれてしまうのです。太郎に関連する書籍をこれまで何冊か愛読してきましたが、その中でも、私の心の中に深く刻み込まれた言葉が2つあります。
◎ある人が言った「あなたは絵描きさんでありながら、さかんに文章も書くし、いったいどっちが本職でか?」
「本職、そんなものありませんよ。バカバカしい。もしどうしても本職って言うんなら“人間”ですね」
◎長野県諏訪大社で7年に一度開催される奇祭、御柱祭に招待された太郎。木落としの坂の上から御柱をまさにおろそうとした時、太郎が柱に乗せろ!と言い出し周囲の人たちを唖然とさせた。そこで太郎が放った一言。
「死んでなにが悪い。祭りだろ」
昨年の生誕百年祭イベントのキャッチフレーズは Be TARO でした。
何ともすばらしい言葉です。
当日は晴天だったこともあり、まず生田緑地の「ばら苑」を観に行きました。ここはバラの開花期(年2回)にしかオープンしない施設で、今回が初めての訪問となります。今回訪れた「ばら苑」は、2002年3月に向ヶ丘遊園が閉園したのち、園内にあった「ばら苑」の存続を求めた市民の要望を受けて、川崎市が運営を引き継いだとのこと。地元の人たちから愛されていたのですね…。
生田緑地ばら苑
いよいよ「ばら苑」に到着、そこはまさに見渡す限りのバラの園(その)でした。


今度は春の季節に開園するそうなので、また天気が良い日を見はからって再訪したいと思います。
今回の生田緑地の散策には、実はもう1つ目的地がありました。「ばら苑」を後にして次に向かったのは「川崎市岡本太郎美術館」です。ここは今回で3回目の訪問となります。
川崎市岡本太郎美術館
岡本太郎……私が尊敬して止まない芸術家の1人です。画家・彫刻家でありながら、評論・文筆活動を行い、考古学・民俗学にも精通している知識人。芸術家という枠に収まりきらない、一人の人間として憧れる偉大な人物です。すべての作品から放たれる強烈なパワーは、他の芸術家とは一線を画している、まさにオンリーワンの存在感です。
今から20年近く前、大学4年生の冬に卒業旅行で(といっても気ままな一人旅でしたが)大阪巡りをしました。生まれも育ちも東京で、中学校の修学旅行で京都・奈良しか訪れたことのなかった私としては、関西の中心地、大阪のコテコテの雰囲気を体感してみたかったのです。その旅行の際に是非行ってみたい所が3つありました。道頓堀、通天閣、そして「太陽の塔」です。万博公園で塔を目の当りにした時、その偉容に圧倒されたことを、今でも鮮明に覚えています。
万博公園 太陽の塔
数年前、メキシコで制作された幻の大作「明日の神話」が発見・復元された時も汐留に足を運びましたし、昨年は生誕百年を記念して開催された東京国立近代美術館の「岡本太郎展」も観に行きました。こちらは大盛況で、1時間以上並んで入場しました。特に20代くらいの若者が多くいた印象があります。世代を超えた人気ぶりを感じましたね。
生誕100年 岡本太郎展
私は、自宅から東京都内に電車で向かう際には東急田園都市線を利用するのですが、ちょうど多摩川に差し掛かる時、土手沿いに目をやると、ウネウネした形の白いオブジェがチラリと見えてきます。普段の日常の光景の中にも、太郎の作品が身近に存在しています。
岡本かの子文学碑「誇り」(宮前区市民サイト)
前段が長くなりましたが、以下、美術館の様子です。




実は今年9月、妻と2泊3日で名古屋に旅行に行ったのですが、その旅行の際にも是非行ってみたい所が3か所ありました。熱田神宮、犬山城、そして「日本モンキーパーク」です。
日本モンキーパーク
なぜモンキーパークなのか…、確かに私は申年生まれで猿は大好きなのですが、目的はかわいいお猿さん達ではなく、太郎が大阪万博の「太陽の塔」の前年(1969年)に製作した「若き太陽の塔」を観るためでした。この塔は大阪の塔と比べてかなりマイナーな存在ですが、昨年、塔がお色直ししてリニューアル公開されたとの情報を聞いていたので、この機会に是非訪れてみたいと思っていました。
炎天下、巨大な塔の下に立ったとき、20年の歳月を経てまさにデジャヴュのような感覚に襲われました。



愛すべき岡本太郎のことを書き出すと、アレもコレも…となって収拾がつかなくなってしまうのですが、太郎の魅力は数多くの作品以上に、その生き様というか、彼が語った言葉に強く惹かれてしまうのです。太郎に関連する書籍をこれまで何冊か愛読してきましたが、その中でも、私の心の中に深く刻み込まれた言葉が2つあります。
◎ある人が言った「あなたは絵描きさんでありながら、さかんに文章も書くし、いったいどっちが本職でか?」
「本職、そんなものありませんよ。バカバカしい。もしどうしても本職って言うんなら“人間”ですね」
◎長野県諏訪大社で7年に一度開催される奇祭、御柱祭に招待された太郎。木落としの坂の上から御柱をまさにおろそうとした時、太郎が柱に乗せろ!と言い出し周囲の人たちを唖然とさせた。そこで太郎が放った一言。
「死んでなにが悪い。祭りだろ」
昨年の生誕百年祭イベントのキャッチフレーズは Be TARO でした。
何ともすばらしい言葉です。